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2015年8月23日 (日)

湖上を歩く

 (マルコ6:45-52,エフェソ4:1-16,ゼファニヤ3:18-20)
 イエスは私たちを豊かに養ってくださる羊飼いであり、いなくなった羊を探し出し、担いで連れ戻してくださる羊飼いの姿を思い出すことができる。
 本日の福音書の日課で、イエスは弟子たちを強いて船にお乗せになられた。ご自身が祈るためであったが、弟子たちも一緒は駄目だったのだろうか。しかし、「強いて」送り出される弟子の姿は、私たちと重なるものでもある、私たちも家族を離れ自立していくからである。
 ところで、湖上の奇蹟は4章にもある。弟子と一緒に船に乗っていたら嵐に遭い、弟子たちに願われて嵐を静めた。つまり、嵐をも権威ある言葉で静める奇蹟である。今日の箇所においては、嵐が静まったことは「ついでのこと」でしかない。では、中心的モチーフは何か。4章との違いを見ていくと、湖の上をイエスが歩いたという決定的な違いがあり、そこに今日の箇所の中心があることは明白である。
 夜明けごろ、嵐で進めない船を見て、イエスが湖上を歩いて来られた。彼らを助けようとしてであった。ところが、イエスは「通りすぎようとされる」のである。いなくなった羊を肩にのせて連れ帰るイエスの姿ではない。偶然ではないし、気づかなかったのでもない。はっきりとし意思をもって通り過ぎようとされたのである。
 「通り過ぎる」ことに大きな意味があり、これは「神顕現」に固有のモチーフである。イエスは悩む弟子たちの苦悩をみて、助けようとされたが、「通り過ぎる」ということで助けようとされたのである。不思議な方法だが、出エジプト記33:21~23では、モーセがイスラエルの先頭に立って行くことを恐れた時に、神が横を通り過ぎることによって栄光を現わしてくださった。列王記上19:11~12では、ホレブ山でまったく孤独であると感じるエリヤに対して、洞穴から出て山の上に立つことを命じることで神はご自身を現してくださった。
 弟子たちは理解しておらず、幽霊だとさわぐ。「心が鈍くなっていた」からであるが、神は通り過ぎることで助け守ろうとしてくださっている。それは私たちの望む助け方ではないかもしれないが、私たちの望む方法が最も良いということではないはずである。通り過ぎるという不可思議な方法、すなわち私たちの思いを超えた方法でイエスは良き羊飼いであることを示されたのである。
 私たちの思いを越えた仕方で神は私たちを助けてくださる。

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