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2015年8月 2日 (日)

イエスとは誰か

 (マルコ6:1-6a,Ⅱコリ12:1-10,エゼキエル2:1-7a)
 先日、葬儀が行われた。キリスト者ではなかったけれど、奥様の信仰によって葬儀を依頼されたのでご奉仕させていただいた。突然のことであったにも拘らず多くの方が参列してくださったが、ご家族の方にとっても「この人は誰だろう」と思う方も多かったという。広い交友関係と如何に多くの方に慕われていたかが伺えた時でもあった。私のことについて言えば、参列の方からすると、「葬儀を行っている私をこの牧師さんは一体誰だろう、なぜここにいるのだろう、教会のことなんか聞いてもいなかったから、一体何故キリスト教なのだろう」と思われたに違いない。私たちは自分のことはともかくとして、家族の交友関係すら全てを知っている訳ではないと改めて知らされる。
 日課の福音書は、故郷ナザレの会堂で話をされたイエスの姿が描かれる。故郷ナザレの人々はイエスに驚いたが、それは説教の内容ではなく、「イエスがそのような話をした」ということにほかならない。故郷ナザレでは「神の子」とは見ないで、「マリアの子」としか見ることができなかったからである。信仰の故に、家族と対立している人々が初期の教会にはいたことだろう。そのような仲間に、主イエスご自身も同じであったということを示すことで、励ますという目的もあったのかもしれない。ともあれ、故郷ナザレでは「人々の不信仰」をご覧になり、だから何も奇蹟を行うことがおできにならなかったのである。
 「信仰」という言葉はギリシア語では「pistis(ピスティス)」で、その意味は頭の中で「神がいる」とか「イエスはキリストである」と考えているということではなく、あきらめや不安があっても、それ以上に神に信頼を置いて生きるという姿勢にほかならない。そのような信仰に対して、「マリアの子」という思いは信仰ではなく不信仰しか生み出さなかったのであり、その不信仰は神の業を出来なくさせるものなのだというのである。ただし、強調したいことは、出来なかったことではなく「イエスが神の子と信じる時には出来る」ということをマルコは告げたいことは言うまでもない。
20150802_2 それでも神の言葉が語られ、神の言葉を受け入れるときに、「神には何でもできないことはない。」と語り続けられるのである。イエスは神の子と告白し、信頼して毎日を過ごしていきたい。

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