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2015年7月19日 (日)

たとえ嵐でも

(マルコ4:35-41,Ⅱコリ7:1-16,ヨブ38:1-11)
 台風のニュースが気になる季節である。先週もゆっくりと進む台風11 号によって、日本中が様々な影響を受けた。ニュースを通してある程度備えをすることはできる。しかし、台風そのものを抑えることも変更させることもできない。台風を「予測できない時代」から「予測できる時代」になっても、そのことは変わらない。
 今日の日課には、嵐によって右往左往する弟子たちの様が描かれている。弟子たちの中には漁師もいたのだから、ある程度は予想していただろうが、その彼らが「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と狼狽する程の嵐に見
 舞われたのである。そのような中、「艫で寝ているイエスの姿」は常識では考えられないような姿である。それは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」というイエスの言葉が示すように、突然の嵐の中でも怖がる必要はないということを表しているのである。その上で、イエスは嵐を静めてくださったのだが、実に規模の大きな奇蹟といわざるを得ない。
 ところで、旧約の日課のヨブ記も背景が嵐である。旧約聖書において「嵐」は神の顕現、あるいは尊厳と威光を表わしている。しかもヨブ記で「嵐」という言葉は他に「暴?、つむじ?、?巻」と訳されており、家も?も?瞬にして吹き?ばしてしまう恐ろしい?の意味で、その中に?が立つことは不可能なので、ここでの「嵐の中からヨブに答えられた」という表現は霊的な意味だと?えよう。「嵐」は?間が コツコツと築いてきたものや経験や知識を?瞬にして吹き?ばし、破壊してしまう?を持っている。ヨブも「嵐の中から」語られた主の言葉で今までにない?きな変化が訪れ、漁師の経験も通用しない嵐の中で、ありのままの弱い弟子たちの姿が描かれているのである。
 そのような嵐を静められるのは神ご自身しかいない。イエスが「黙れ、静まれ」と叱り、嵐を静められたことによって、ご自身が神であることを示されている。弟子たちは、嵐を静めるイエスに対して畏怖心をいだき、「先生」から「権威ある方」となったが、それでも彼らはイエスを本当に理解することはできなかった。
 嵐という人の手に及ばない出来事に出会う時に(もはや私には何のすべもないと思える時に)、私たちは神と出会えるのかもしれない。どのような時にも神に心を向ける信仰が与えられるようにと祈っていきたい。

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