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2015年7月

2015年7月26日 (日)

人の願い、神の思い

 (マルコ4:26-34,Ⅱコリ6:1-18,エゼキエル17:22-24)
 今日の日課には二つのいやしの物語が伝えられており、ヤイロの娘の話の間に出血の止まらない女の話が挟まれている。二つの話の共通点は、絶望的な状況、信じてイエスにひれ伏すことで道が開けるということにほかならない。そのことを頭に入れた上で、出血の止まらない女性のことを主に考える。
 彼女の苦しみは12年間も続いていた。12という数字は絶対数なので、正確に12年というよりも、とても長くという意味にもとれるだろう。先の見えない苦しみ、結果を得られない苦しみは、彼女を絶望的にしただろう。また律法の下での苦しみも加わっていた。レビ記15章25~27節によれば、出血は汚れているとされ、人と交わることも許されない状況であった。財産を使い果たし、社会からは「汚れ」として差別され疎外されていた12年間なのである。
 町に来られたイエスに、触れたら治してもらえるだろうという期待と、人に触れてはならないという自分の立場の板挟みの中で、彼女は意を決して触れるのである。ジレンマの中で触れた彼女であったが、期待した以上の結果を得る。出血が止まったからである。そこからの彼女の願いは、群衆に紛れこみ、誰にも気づかれないように立ち去ることであっただろう。イエスさえ気づかなければ、いや、気づいたとしても見逃してくれたら、それが一番良かったのである。大勢の群衆は気づいた気配はないし、あと一息で、何事もなかったかのように過ぎ、そして彼女の12年間の長い長い苦悩が終わる。彼女はもう一息で自分の願いがかなうと、ドキドキしながらも、安堵感が徐々に心を占め初めていたのではなかっただろうか。気づいておられたとしても、「武士の情け」と見逃してくだされば全てが終わったはずなのである。
 しかし彼女の思いと裏腹に、イエスは見逃されなかった。神の憐れみは武士の情けと違う。見逃せば、「汚れたままで触れた」という新たな罪の中で彼女はまた苦悩を続けなけらばならない。武士の情けの限界がそこにある。
20150726 震えながら進み出てひれ伏した女に、イエスは「信仰があなたを救った、安心していきなさい」といわれる。彼女が、あるいはイスラエルのすべてが気にした「汚れ」を無視することによって、権威ある者としてのご自身を現された。そして彼女を律法の呪いから解放し、元気で暮らすことができるようにしてくださったが、そのきっかけは、「この方の服にでも触れればいやしていただける」という素朴な信仰(願い)であった。それに応えることこそが神の思いなのであった。

汗かき

 日照不足の日々が一転、猛暑の日々が続く七月。ここにきて冷夏の予報が取り消され、八月も猛暑が続くと変更された。だからといって一日24時間は変わる訳でもなく、予報に心騒がせることなく一日一日を過ごすだけだ。だが、冷夏と猛暑では私の皮膚には大きな違いが生じる。汗っかきな私の手首に、猛暑になると酷いアセモ(汗疹)ができるのだ。恐らく手首が一番汗を出しているからだろうが、気を付けて拭っていても、暑さが厳しい夏は必ず「コンニチワ」と表れてくる。死ぬまで付き合うしかないと諦めているものの、「出来ればアセモにならない程度の暑さの夏を」と今年も願う私である。
 恒温動物である人間は内臓などを37度に保つ必要がある。体内で生産された熱は、皮膚や筋肉が汗をかくことで放出され、体温が一定に保たれる。汗は体温調節という大切な役目を担っているのである。ところで汗は汗腺から出るが、汗腺にも2種類あって、アポクリン腺とエクリン腺という。前者は脇の下などにあって、体臭腺ともいわれ臭いを分泌する。後者は体温を一定に保つために全身の皮膚の浅い部分に200~500万個あるが、その数は3才までに決まると言われている。また全てが汗を出すのではなく、汗を出す「能動汗腺」と出さない「不能汗腺」に分けられ、気候によって平均能動汗腺は異なるという。ちなみにロシア人では180万個、日本人230万個、フィリピン人280万個とされている。また能動汗腺は、汗や汚れによって詰まると炎症を起こし、これがアセモとなる。汗腺の数は大人も子どももほぼ同じなので、体表面の小さな子どもは表面積当たりの汗腺の数も多くなり、新陳代謝も活発で汗を沢山かくためにアセモになり易いのである。アセモに悩まされる私の体は「子ども並みに若い」・・・のではなく「ただの汗っかき」に過ぎない。
 最後の晩餐の後、イエスはオリーブ山で祈られた。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:44)私たちは自分のために汗を流す。しかしイエスは、私たちのために汗を流して祈り、十字架についてくださった。汗っかきな私だが、自分のためだけでなく大切な人のために、私も汗をかけるように祈っていきたい。

2015年7月19日 (日)

たとえ嵐でも

(マルコ4:35-41,Ⅱコリ7:1-16,ヨブ38:1-11)
 台風のニュースが気になる季節である。先週もゆっくりと進む台風11 号によって、日本中が様々な影響を受けた。ニュースを通してある程度備えをすることはできる。しかし、台風そのものを抑えることも変更させることもできない。台風を「予測できない時代」から「予測できる時代」になっても、そのことは変わらない。
 今日の日課には、嵐によって右往左往する弟子たちの様が描かれている。弟子たちの中には漁師もいたのだから、ある程度は予想していただろうが、その彼らが「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と狼狽する程の嵐に見
 舞われたのである。そのような中、「艫で寝ているイエスの姿」は常識では考えられないような姿である。それは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」というイエスの言葉が示すように、突然の嵐の中でも怖がる必要はないということを表しているのである。その上で、イエスは嵐を静めてくださったのだが、実に規模の大きな奇蹟といわざるを得ない。
 ところで、旧約の日課のヨブ記も背景が嵐である。旧約聖書において「嵐」は神の顕現、あるいは尊厳と威光を表わしている。しかもヨブ記で「嵐」という言葉は他に「暴?、つむじ?、?巻」と訳されており、家も?も?瞬にして吹き?ばしてしまう恐ろしい?の意味で、その中に?が立つことは不可能なので、ここでの「嵐の中からヨブに答えられた」という表現は霊的な意味だと?えよう。「嵐」は?間が コツコツと築いてきたものや経験や知識を?瞬にして吹き?ばし、破壊してしまう?を持っている。ヨブも「嵐の中から」語られた主の言葉で今までにない?きな変化が訪れ、漁師の経験も通用しない嵐の中で、ありのままの弱い弟子たちの姿が描かれているのである。
 そのような嵐を静められるのは神ご自身しかいない。イエスが「黙れ、静まれ」と叱り、嵐を静められたことによって、ご自身が神であることを示されている。弟子たちは、嵐を静めるイエスに対して畏怖心をいだき、「先生」から「権威ある方」となったが、それでも彼らはイエスを本当に理解することはできなかった。
 嵐という人の手に及ばない出来事に出会う時に(もはや私には何のすべもないと思える時に)、私たちは神と出会えるのかもしれない。どのような時にも神に心を向ける信仰が与えられるようにと祈っていきたい。

民主主義の危機

 日本キリスト教協議会(NCC)の平和・核問題委員会(委員長はルーテル教会の牧師)は、7月6日付で「『安全保障関連法案』の廃案を求める声明」を出した。
 声明文の一部を紹介する。「安倍内閣は、戦後70年間日本が非戦の平和国家として世界に認められてきたことを根本から壊す平和安全法制備法案および国際平和支援法案を、5月14日閣議決定しました。平和とか安全の名が入っていても平和や安全とは真逆の法であり、自衛隊を他国防衛のために海外で武力行使ができる、つまり戦争を行う国の支援などを切れ目なく行うこととする危険な法制度です。いのちを何よりも大切と考えるキリスト者として、また憲法9条が禁止する海外での武力行使を可能とすることを、私共は到底認めることができません。この戦争法案は廃案にされるよう、強く要請致します。(中略)
 そもそも昨年7月1日の集団的自衛権の行使を可能とする「閣議決定」も憲法違反行為ですが、その指摘も無視して「平和安全法制整備法案」へと突き進み、他国に自衛隊を派遣する法を整備することは、憲法学者ならずとも憲法上から許されるはずもないものであることは明らかです。(中略) この法案は平和ではなく戦争をもたらすものです。廃案を求めます。
 武力で平和は作れないことは、歴史が証明しています。戦争は人類最大の罪です。日本は平和憲法を盾にして、戦争や紛争が起こらないよう、争いのあるところに和解を作り出す働きをしてください。大量破壊兵器はもちろん通常の武器の製造の禁止、地雷や機雷を敷設することの禁止を世界に向かって提案することなど、日本の名誉ある役目は沢山あります。どうか真に世界から 信頼と尊敬を得る国となるように、知恵を絞って平和を作り出す先頭に立ってくださるよう、心からお願いします。」
 安保法案を強行採決した翌日、新国立競技場の再検討が発表された。理由は「国民の声を聞いたから」だという。ならば、安保法案に対する国民の声も当然聞くべきであろう。9月末にどのような結果をきくことになるは分からないが、どんな時にも「平和を実現する人々」(マタイ5:9)の一員であり続けたい。

2015年7月12日 (日)

助けを知る

(マルコ4:26-34,Ⅱコリ6:1-18,エゼキエル17:22-24)
 マルコによる福音書において、イエスの宣教は「時は満ち、神の国は近づいた。」の言葉によって始められた。神の国とは神が支配される(働かれる)ところであるが、それは目に見えるようなものではないけれども、宣教の当初から、神の国は神ご自身の力によって始まっているものである。本日の福音書の箇所の自ら成長する種のたとえは、そのことを伝えようとしている。
 日課の中に「土はひとりでに」と記されているが、ギリシャ語は「アウトマテー」であり、英語の「オートマティック=自動」という言葉がここから始まっている。私たちの周囲にも自動の機械があふれている。空焚きすると自動的に止まるガスコンロ、美味しく炊き上げる炊飯器、パソコン、プリンターなどなど。素人には不思議な仕組みだが、作った人には決して不思議ではないだろう。そう動くように作ったからである。神の国も私たちの目には「自動的に働くもの」として映り、その仕組みについて私たちには理解できなくとも、神ご自身が働かれているので確かに実りをもたらされるということほかならない。そのことを私たちが受け入れようが受け入れまいが、神は働いておられ、やがて圧倒的な姿で神の国は人々の前に現れてくると、からし種のたとえを通して語られている。
 もう一度最初に述べたことを確認する。「時は満ち、神の国は近づいた。」と宣教が始まったが、どこで始まったか。ガリラヤである。今でこそ、世界地図ではエルサレムもガリラヤも同じ大きさで描かれる。しかし、かつてはそうではなかった。ガリラヤはエルサレムに比べると小さな場所、ユダヤ人の世界でも辺境の地であって、世界の片隅で起こった出来事、それが「神の国」であった。しかしそれが、やがて世界のどんな出来事よりも大きな意味をもつものとなったのである。
 「からしだね」が、実際にはどのようなものであるかはっきりしていない。現在、からしだねと紹介されているものは、中南米を原産とする「キダチタバコ」である。イエスの時代にはイスラエルにはなかったけれども、種子は小さくとも成長が早く大きくなることなど、イエスの譬え話にマッチする。この種が広く伝えられ広がっていくように、弟子たちの働きも、神が働いてくださるから、神によって完成へと導かれていく。かつてルターが語ったように、「我々がこうしている間にも、神のみ業はどんどん進んでいる」のである。神の助けを信じて、私たちに出来ることを精一杯なしていきましょう。

にんじゃになりたい

 「にんじゃになりたい」という願いを、保育園の七夕飾りの短冊の中に見つけた。大人の字なので、3才か4才児の子どもの願いを保育士が聞き、代筆して飾ってくれたのだろう。「にんじゃになりたい」と素直に願う心が羨ましい。
 「ささの葉サラサラ のきばにゆれる お星さまきらきら きんぎん砂子」(七夕の歌)七月を迎えると思わず歌ってしまう童謡である。七夕の行事は「日本の禊(みそぎ)の行事で、乙女が着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり人々のけがれをはらうこと」(京都・地主神社HPより)が由来であるという。宗教的なことはともかくとして、七夕飾りそのものはきれいで楽しいものである。年に一度の織姫星と彦星の再会を、素直に楽しむのも良いだろう。短冊に願いを込めるという習わしも、子どもたちにはサンタさんの時と同じようにお願いできる楽しい時として受け入れられているに違いない。でも、七夕のお願いはどんな神様にするのだろうか。
 「あらゆる点において「あなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(使徒言行録17:22~24)おパウロがアテネの町で行った演説である。「わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)と、ご自身を表される神様は、聖書を通して私たちに深くかかわってくださっていることを教えておられる。しかもある特別の日だけでなく、私たちが「主よ、」とお呼びする時はいつでも聞いてくださるのである。
 「にんじゃになりたい」と願う時、その子が「迷子の羊を肩に担いで連れ帰る羊飼いの主イエス」を、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げた主イエスを、思い浮かべてくれていることを願いたい。

2015年7月 5日 (日)

うるう秒

 7月1日午前9時直前に1秒追加の時間調整が行われた。1972年に開始されたこの時間調整は、今回で26回目を数える。ということは「私が中学2年の時よりも一年が26秒も長くなっている」ということになるが、私の寿命が延びた訳ではないし、生活に支障が生じた訳でもない。何故こんなことが必要かというと、一日の長さが違うからである。しかも違いが一定という訳でもないらしく、わずかに短い日もあったりするという。これ以上は私も理解不可能なので記せないが、遅い早いといっても0.001秒、0.3秒といわれる瞬きの300分の1のことに過ぎない。ただ、精密機器への影響が心配されたが、事件事故になることもなく無事に1秒追加できたようだ。
 地球の自転に合わせて4年に1度「閏月」がある。だが100で割れる年の閏月はないが400で割れる年は閏月とすると決められている。一方、1日の長さを調整するのは「閏秒」を用いるが、これは決まった法則はなく、6月末日か12月末日に調整される。私たちの生命を育む地球だが、その生業(ナリワイ)を100%掌握する技術は、人間にはないということであろうか。完璧な天気予報はないし、火山活動や天変地異を100%予知することなど不可能ということにほかならない。だから古の人が、人間の力では変えられない地球の動きを理解し調整することを表現するのに余分を意味する「閏」を充てたのも、人の力には有り余るという意味を込めたのかもしれない。
 さて、私たちにとって最も大切な「聖書」の下になる言葉は「バイブル」である。ギリシャ語の「ビブリオン」に由来し、書物を意味し、聖書を表す時は定冠詞を付けて「ザ・バイブル」ということから、まさに書物の中の書物といわれるのである。キリスト教では「カノン(正典)」ともいい、尺度・基準というギリシャ語がもとになっており、そのことから「聖書はキリスト教の信仰内容を正しく理解し伝えるための基準」と受け止めることができる。(聖書協会HPより)「聖書」という標記は「聖さ」のイメージが前面に出てしまうが、もともとは信仰について正しく伝える「正書(カノン)」というのが良かったのではないか。あるいは人の手に余る書「閏書」と呼ぶことで、神への畏敬の念を強めることもあって良いかもしれない。まぁ、どのような呼び方であろうと、「聖書」は私の人生にとってかけがえのない書物には違いない。

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