« 何が大事か | トップページ | 五月晴れ »

2015年6月21日 (日)

自由な振る舞い

 (マルコ2:23-28,Ⅱコリ4:7-18,申命記5:12-15)
 「歩きながら、麦の穂を摘み始めた。」事件はここから始まった。恐らく、彼らはいつものように行っていたのである。イエスが語る言葉は、彼らには新鮮で、わくわくしながら旅をしていた。空腹を覚え麦畑に入って穂を摘み口に入れる。漁師であった者も、徴税人であった者も、空腹の時に麦の穂を摘んで口に入れることは律法でも許されていたために、いつものように行っただけであった。この些細なことが問題とされたのであった。その日が安息日だったからであり、彼らの行為が「労働」とされたからであった。
 律法を厳格に守ろうとすればするほど、労働の定義が難しくなる。どこからどこまでが「労働」で、どこからどこまでが「労働でない」かを厳密に規定しなければならないからである。専門的に行うのが律法学者であり、彼らの見解では麦の穂を手で摘むことは「刈入れ」であり、それは労働と主張していたので、弟子たちの行為は安息日禁止されていることを行った律法違反となるのだ。
 しかしイエスは何が労働なのかというような議論はせず、ダビデとその供の者が、空腹のあまり祭司しか食べてはならないパンを食べたという出来事から、飢えたときには律法を破っても良いと語るのである。しかしこれでは議論はかみ合っていないのである。ファリサイ派の問いは、「安息日に何故労働するのか」であったが、イエスの答えは「安息日の例外規定の話」であった。またファリサイ派は主張は「食べた」ことではなく「摘んだ」ことを問題としたが、イエスの主張は「食べてはならないものを食べた」ということにあったからである。
 つまり、イエスは、些細なことで議論するのを拒否しているのである。安息日は人のために定められたのであって、律法学者の解釈は「本末転倒」であるというのがイエスの主張にほかならない。このことは、律法学者たちの反目を買い、彼らとの溝が深まっていく原因となっているのである。
20150621_3 安保法制の議論がおこなわれている。集団的自衛権があるという根拠を砂川判決(アメリカ軍基地拡充に反対するデモ隊が、敷地に入ったということで、最終的に有罪)に在るのだと主張している。ここから自国民、組織だけでなく、日本のために闘ってくれている他国の軍隊が攻め立てられたら
戦うことができるとするのだが、一般にはとても分かりにくい論理である。そして自説に憲法を合わせようとする、本末転倒の議論であり、国民としてはあってはならないと主張せざるを得ない。
 些細なことを論じる律法学者たちの態度が、安息の日を束縛の日にしてしまった。安息日は人のためにあるのだから、もっと自由に振舞って良いということにほかならない。

« 何が大事か | トップページ | 五月晴れ »

説教要旨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 何が大事か | トップページ | 五月晴れ »