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2015年6月28日 (日)

主のまなざし

(マルコ3:1-12,Ⅱコリ5:1-10,イザヤ58:11-14)
 会堂外観を対岸から見ると、全体が見えて小さくとも美しい姿を見ることができる。これまでは楠があり看板があり、直接全体を見ることはできなかっただけに、実に新鮮に感じる。私たちが思い込んでいた教会の姿もあるが、眼差しひとつで随分違うものだと感じる。
 今日の日課にも人々の眼差しがある。彼らは何を見ていたか。彼らの視線には、手の萎えた人は入って来ていない。手の萎えた人だけでなく、人々の苦しみや困窮には目がいかず、ひたすらに律法違反ではないかどうかという一点に目が注がれている。見ている人の中には、ファリサイ派、ヘロデ派、一般の信徒と様々な人々がいる。その中で「ヘロデ派」はヘロデ王家の支持者で、権力維持のためにローマとの妥協を政治信条にしていた。「ファリサイ派」は政治的には反ローマであった。対立する二つの派が「反イエス」という点で一致したということを通して、彼らの衝撃の大きさが分かる。決定的な理由は「安息日の問題」であった。
 安息日に命に別状がなければ、「安息日には良いこともしてはいけない」と読み取ったのがファリサイ派の人々であり、そこから「良いことをする」よりも「何もしない」方が、安息日の精神に適っているというのがファリサイ派の解釈になっているたのである。しかしイエスは「善を行わないことは、悪を行うことだ」といっているのであり、それは安息日であろうがなかろうがどうしても問われなければならない問題なのである。
 イエスの論点は2章27節にあるように、「安息日は、人のために定められた」ということにほかならない。人のためにということは、人の人生の質を高めるためということにほかならない。天地創造の折、六日間の創造をおえ、神は七日目を「これを聖とする」として安息日を定められた。その日が人のためになるということであり、換言すれば人の生の質を高めるということでもある。 
20150628 7節以下。大勢の人がやってくるが、大勢の人が満たされていないという現実を知らされるだけであった。彼らは本当の意味でイエスを知らない。知っているのは汚れた霊だけであったことを、この箇所は伝えている。それがイエスが宣教を始めたときの現実であったとマルコは伝えているのである。そこにイエスは来てくださった。それが弟子たちの人生の生の質を高めるもの、人生を豊かにするということにほかならない。主が私に向けてくださる眼差しを知るならば、私の人生は豊かになるのだと、今日も語ってくださっている。

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