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2015年6月21日 (日)

何が大事か

 1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」の犯人が、「元少年A」の著名で「絶歌」と題した書籍を出版した。彼は出版によって得られる印税は全て被害者の補償に充てると語っているようだが、遺族の方への断りも無い出版に、遺族の方は激しい憤りを示されていた。当然のことだろう。自分の事の弁解を記し、更に自分が負わなければならない弁償の一部を、事件を晒すことで印税を得て補おうとすることになるのだから、遺族の方の怒りも良く理解できる。このような場合、アメリカには「サムの息子法」というものがあり、犯罪の加害者が自分の犯罪実話を売り物にして得た利益は、強制的に被害者に支払わせることになっている。1977年に起きた猟奇的な犯罪の犯人が、逮捕後に書いた手記の版権が巨額になり、当時のニューヨーク州議会は大急ぎで法律を改正したことが始まりである。(ちなみに犯人は「サムの息子」と名乗っていたことから、この法律の名前となった。)
 「本書の出版が突然のことであったため、ご遺族の心を乱すものであることは重く受け止めています。出版は出版する者自身がその責任において決定すべきものだと考えます。出版を継続し、本書の内容が多くの方に読まれることにより、少年犯罪発生の背景を理解することに役立つと確信しております。」出版社の声明文の一部である。遺族のことを意識したが、それ以上に大きな社会的意味があるというのが出版に至ったという論理である。私は思う、これは明らかに詭弁だと。社会的だとか今後の犯罪を防ぐだとか、あるいは公的かつ多数を持ち出して結局自社の利益を追求しているだけに過ぎない。少年犯罪に貢献したいのなら、出版せずとも研究者に資料を提供すれば良いはずだ。多くの人がというけれども、多数が必ずしも正義ではないし、被害者という限りなく少数が踏みにじられて良いという理由はどこにもないはずである。何を一番大切にしなければならないのかを、多数だとか社会的貢献などという言葉に惑わされずに考えていくことが、大事なのではなかろうか。今回の出版に関して、サムの息子法のこと以上に大事なことは、小さくされがちである「遺族の気持ち」ではないだろうか。「この最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことなのである。」と今年の教会主題聖句にもあるように・・・。

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