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2015年6月14日 (日)

心を新しく

(マルコ2:18-22,Ⅱコリ3:1-6,ホセア2:16-22)
 断食という宗教的な行為を、イスラエルの人々は敬虔さを表す手段として行ってきた。イエスの時代ファリサイ派は月曜と木曜の週二回断食していた。(十戒をもらうためにモーセがシナイ山に上った週の第五の日の木曜、下山したという週の第二の日の月曜であった。)しかし、イエスの弟子たちは断食をしなかった。イエスご自身が断食しておられなかったからである。だからといって、断食を否定された訳ではない。パウロも「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(2コリント11:27)と言っているように断食をしたようだし、ディダケー(12使徒の教え)では「あなたがたの断食を偽善者のそれのようにしてはならない。彼らは週の第2日と第5日に断食するのだから、あなたがたは第4日と金曜日とに断食しなさい」と命じている。
 イエスは断食を否定していないが、ファリサイ派やヨハネの弟子たちが断食に与えていた意義付けは否定する。即ち、①神に近づく「行」、②敬虔な者であることを示すデモンストレーションという意義の否定であり、新しい意義付けをされる。花婿(イエス)のたとえを通して、人が断食をして神に近づくのではなく、神がイエスにおいて人間の中にやって来られたということを教えられた。そして「花婿が奪い取られる時」即ちイエスの十字架の出来事の後は人々はイエスの死を想起するために断食を行うようになるのである。先のディダケーに「金曜日」と特定されている意味がそこにある。
 以上のことから、断食に意味があるとすれば、古い意味ではなく新しい意味であり、「人が神に近づく」時代から、「神が人の中にやってきてくださった」時代ということにほかならない。日課の21節と22節は何かの格言かもしれないが、「神が人の中にやってきてくださった」という新しい時代との関連で理解される時に、この言葉は「受肉」し、具体的な言葉になるのであり、単なる格言が福音になるのである。
20150614 断食は変わらないが新しい意味をもつ。即ち、神の救いをもたらすための断食は、イエスの十字架の出来事によってもはや必要ないものとなり、断食はその恵みを想起するという意味となってなされるのである。
 教会の外塀工事が終わった。鎌倉雪ノ下教会よりいただいた掲示板は、少し位置を変えて再び設置された。同じものだが、とても新しいものに見える。私たちも週の初めの日にここに集い、心を新しくされてここから出かけて行こう。

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