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2015年6月 7日 (日)

イエスはとなり人

(マルコ2:13-17,Ⅱコリ1:18-22,イザヤ44:21-22)

 外壁工事が行われている。道路際の大谷石塀を取り壊し、掲示板も通行人の目線まで下げる。会堂が人々の目に多く触れることになり、伝道にも更に寄与してくれると期待している。そればかりでなく、教会側からの眺めも、真間川と対岸の桜並木が見渡せ、素敵な景色が眺められることが分かった。視点を変えると、違うものが見えてくると改めて思う。
 福音書の日課は徴税人レビの召しである。4人の漁師の召しと同じく、何故彼が選ばれたのかということは何も書かれていない。彼もまた即座に招きに応えたが、それも4人の漁師の時と同じである。「無前提で即座に」というのが弟子の召命に大切なことと告げられているようである。とはいえ、レビに躊躇はなかったのだろうか。徴税人の仕事は一度離れると二度と戻れない仕事である。生活のことなど、彼にも心配なことはあっただろうに・・・。
 徴税所に座っていたレビが見ていた景色はどのようなものであっただろうか。彼を見る冷たく厳しい眼差しを感じながら、決して卑屈にならずに睨み返していただろうか。逆にこれしかないんだと、諦めの眼差しでうつむき加減ながらも必死で座り、仕事をしていたのだろうか。いずれにせよ、彼の目に入る人々は、決して彼には暖かな眼差しを送ってくれない人、冷たい眼差しだけを眺めながら過ごしていたのではないか。一日座っていて、彼が仕事として引き留め会話する以外は、誰からも声を掛けられずに過ごす一日であっただろう。その彼に呼びかける方がいた、イエスである。彼を罪人として対立した眼差しではなく、仲間として見つめてくださったのである。
 嬉しそうにやってくるレビ、そして嬉しさの余り思い切って自分の家にと誘うと、「ありがとう、ではお邪魔します」とついてきてくださるイエス。そしてレビの家で罪人や徴税人が一緒に食事となる。「同じ釜の飯を食う」仲間たちの風景が見えるのである。
20150607 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(マルコ2:10) とい言われたイエスは、一緒に食事を取ることで、罪を赦す権威を具体的にみせてくださったのである。その姿は、「エリート主義」のファリサイ派の人々の良心にも鋭く突き刺さったのではなかろうか。
 レビの招きを通して、「あなたのとなり人になるために来た」と語ってくださるイエスを見出し、私たちも大切な人々の「となり人」になるために出かけて行こう。

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