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2015年5月24日 (日)

涙しないために

(ヨハネ15:26-16:4a,使徒2:1-21,1エゼキエル37:1-14)
 エゼキエルは祭司であったBC597年、侵攻してきたバビロニヤのネブカデネツァル王の軍隊に捕えられ、バビロニヤに連れて行かれた。1000kmにも及ぶ荒野、砂漠の中の道のりを、3000人から4000人の同胞と一緒に連れられて行った。彼の心境について記されていないけれども、詩編の中に捕囚の民の歌がある「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。」(詩編137:1)と。50年にも亘った捕囚の地での生活で、彼は詩編の詩人のような思いを抱きながら過ごしたであろう。そして、祭司であった彼は、「いつの日か神が回復してくださる、罪を赦し、エルサレムに連れ帰ってくださる。」その信仰を、捕囚の地で悲嘆にくれる同胞たちに語り続けたであろう。
 主の手がバビロンの流れのほとりでエゼキエルに臨んだのかどうかは分からないが、彼は連れ出され見せられた、枯れた多くの骨を。そして主に言われるままに語ると骨は合わさり肉体が生じたが、まだ霊はみられなかった。更に「霊よ、四方から吹き来たれ」と告げると、彼らは生き返って、非常に大きな集団となったという。息を吹き入れて生きるというのは、創世記の人間の創造の時と同じである。そこでは人は神の息が吹き込まれて生きるものとなると記されている。
 しかし、今日の日課は、人がどうして生きるものとなったかを語ろうとしているのではない。イスラエルの民は生きてきたのであるが、彼らの様はまるで枯れた骨だという。しかも甚だしく枯れていたと。つまり捕囚にあったイスラエル、神の民の群れは、甚だしく枯れた骨だと言っているのである。なぜそうなのか、捕囚の民だからか?荒廃した地に住んでいるからか?だとしたら捕囚を解かれたら生きるのか?豊かさを取り戻せば生きるのか?
 エゼキエルに語られた言葉の中心は、「わたしが」即ち「主が」である。イスラエルの民に、バビロンの流れのほとりで涙するものに、「私が共にいる」涙をぬぐえる力を与えるといってくださっているのである。
20150524_2 聖霊降臨日、教会が誕生した。霊なる神が降るのである。それは主が共にいてくださるしるしをくださったということにほかならない。エゼキエルに臨んでくださったように、私たちが涙する時に聖霊が「泣かないでいなさい」と語ってくださるのである。涙しない日々を送ることが出来るように祈っています。

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