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2015年5月10日 (日)

距離感

 神が人間を創造される時、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:26)と言われた。更に人をエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようにされ「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(同2:16~17)と命ぜられた。人間は神に似せて創られたけれども、神ではないことを「食べてはならない木」の存在によって知らされているのである。神はその木の存在を人が意識することで、ご自身とのほど良い距離感を知らしめようとされたのではなかろうか。
 「『わたし、この子とは性が合いませんねん。(友人の妻)』あるパーティーで、一回り年上の友人が家族を紹介してくれた。初対面のわたしに、奥さんは、横に立っている大学生の息子のことを、笑みをまじえてこう言った。奥歯にものがはさまったような口調ではない。親子のあいだでことばが淀(よど)みなく、遮るものもなく行き交う。信頼しあっていなければ吐けないことばだ。密着より隔てを選ぶこの距離感。見習いたい。」(朝日新聞5 月5 日「折々の言葉」)子どもは違う存在と頭では理解しているつもりでも、つい思ってしまう「何で親の思うようにしてくれないのか」と。気が付けば、親子の距離感よりも親子なのだからという絆(情)での同意を強く求めてしまう。だから私たちも「この子とは性が合わない」と、あっけらかんに言えたらどんなに良いだろう。
 神とのほど良い距離感を保てるための園の中央の木(どういう訳かリンゴの木と言われている)だったが、人は蛇に「神のように善悪を知るものとなる」(創世記3:5)と唆されて食べてしまった。神のようになろうとしたことであり、神と人との距離感を失くそうとしたことにほかならない。聖書はそれを「罪」と呼ぶ。この世の悪の根源に、人が神のようになろうとか、神のように振舞おうとすることによる罪があるのだと、聖書は冒頭で語っているのである。だから、応しい距離感を人類が保てるなら、地上では異宗教でも共存できる世界が生まれるのではないだろうか。

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