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2015年5月 3日 (日)

神様の手入れ

 「わたしはまことのぶどうの木」と今日の日課は始まる。ぶどうはイスラエルの民を象徴するものである。なぜそのようになったのか。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。」(詩編80:9)この聖句によれば、出エジプトの際にぶどうの木をエジプトからもってきたように読めるが、その後、カナンに侵入しようと偵察隊を送った時、彼らはぶどうの一房を担いで帰ってきた。神が約束された地には既にブドウは豊かに実っていたのである。そうであるなら、詩編で語られているぶどうの木とはイスラエルの民ということにほかならない。詩編が書かれた時代(恐らく捕囚の時代)にはイスラエルの民をブドウの木とする起源をみることができる。
 そのことを念頭にしておいて、今日の日課に目を向けると、ブドウの木を譬えとして、神・イエスとイスラエルの民の関係について語られているが、ヨハネ福音書が書かれたのは、イエスが復活されてから7~80年後のことである。つまり初代教会から半世紀以上の後の教会であり、初めの頃の熱気(皆が集まり助け合い、愛し合い、胸ふくらませて希望を語り合った)が冷め、権力者も出てきていただろうし、人間的な私利私欲がはびこるような状況もあったであろう。だから「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(2節)とは、ヨハネ福音書の記者が直面していた危機が現れていると思われる。だからといって、自分たちの状況のためにイエスの言葉を勝手に造り出したのではないだろう。むしろ、イスラエルの民に対するイエスの嘆きの言葉があり、それがヨハネの教会の状況にも当て嵌まるからこそ「実を結ばない」と警告しているのである。そのことは、どの時代においても警告されるべきことで、神に成り代わって人間の思いが優先されていないかということを、いつも問うていかなければならない。
20150503 しかし、「実を結ばないなら切り落とされる」ということで終わっていると、これは福音にならない。神のご意志は、人を裁くことでも脅迫する事でもない。むしろ人が喜んで生きることを望んでおられるはずである。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」(2節)この言葉と通して、私たちは既に神に結ばれているのだということを、実を結ぶのだということを知る。神の恵みは、枝である私たちを切り落とすことではなく、繋がっていれば必ず実を結ぶのだから神を信頼して生きなさいということにほかならない。神が整えてくださることを信じて歩んでいこう。

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