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2015年4月 5日 (日)

清々(スガスガ)しさ

 「気温18度、湿度30%台」、人が快適に感じる気候なのだという。その日が4月に入った二日目にやってきた。微かに風はあるものの、確かに快適な日、清々しい日であった。「清々しい」とは、俳句では初夏の季語でもあると聞いたが、それはともかくあの日は、「春満開」と思わず叫びたくなる清々しい一日であったと思う。
 清々しいとは「さわやかで気持ちがいい」と大辞泉には載っている。それだけでなく「滞らずに事が運んでいる」という意味もあって、体も心も晴れやかな気持ちということになろうか。俳句で言う初夏に限らず清々しい気持ちにはなかなかなれないが、そんな日が多くあればどんなに素敵な事だろう。
 エデンの園を追放されて以来、男は顔に汗を流してパンを得、女は苦しんで子を産むようになり、清々しさとは無縁の世界に追放された。(創世記3章)洪水の後に船を出たノアとその家族たちは、神の約束のしるし「虹」を見上げたが、命の息吹が見え始めていたとはいえ全てが水没して荒れ果てた世界に、決して清々しい気持ちではいられなかっただろう。アブラハムは神の民の父祖となるという重たい使命を抱えていたし、モーセやヨシュアも民を率いる責任を常に覚えていただろう。苦しみと悩みから解放されて再び豊かさを取り戻したヨブにしても、清々しいという雰囲気はない。そのほか多くの士師、王、預言者を思い浮かべても、私の記憶と知識ではなかなか「清々しい」という場面を思い起せない。
 復活されたイエスは、エマオへ向かう二人の弟子に現れた。「エマオへの途上」(ルカ24:13以下)として有名な個所である。歩きながら話し、食事の際にパンを裂かれると、二人はイエスであることが分かった。イエスが見えなくなって彼らは「私たちの心は燃えていた」と語り合っているが、それはどういうことなのだろ。神のご計画である十字架の出来事を滞りなくやり遂げたイエスは、まさに清々しい思いで彼らに触れておられたのではないか。それが「先生の死」という悲しみを拭い、心を燃やされ、彼らもまた清々しさで一杯になり、仲間の所へ戻っていったのではないか。
 イースターおめでとうございます。曇天予報ですが、せめて心は清々しい一日に!

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