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2015年4月26日 (日)

赦すために

(ヨハネ21:15-19,使徒4:23-33,1ヨハネ3:1-2)
 日々、多くの人と関わりながら生きている私たちだが、災害に遭った人々と関わることは、その方々の励みになることであると知りつつも、関わり続けることはとても難しい。そのことを可能にする力は、自分に関わり続けてくれる人がいることを知っている時に、関わり続ける力を得られるのではないか。
 ヨハネによる福音書は「初めに言があった。」と始まる。イエスの登場に関して、「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」(1:14)と関ってくださっていることを言(イエス)の存在を通して示してくださる。その意味では、福音とは「キリストの出来事」であるが、ヨハネの福音は「神が関わっておられる」ということが更に強調されているともいえる。だから、ヨハネは、復活後のヨハネを、他の福音書より多く描こうとしている。特に、裏切り、逃げ去ってしまった弟子たちに関わり、寄り添う姿をみせることによって、キリストの出来事は、まさに神が関わり続けてくださっていること、即ちそれが福音にほかならないと語っているのである。
 福音書の日課は、岸辺での朝食を終え、ペトロにイエスが質問される「この人たち以上に私を愛しているか」と。これは①ここにいる人たちの中で誰よりも(最高に)私を愛しているかということ、②ここにいる人の中では私を一番愛しているか、という二つの意味に解することが出来る。ペトロの応えは、「あなたがご存知です」と、答えにならない答えになってしまっている。彼は自分の弱さ、罪から目をそらし、イエスの判断に委ねようとしていると言えなくもない。それがまた、彼の弱さなのだが・・・。
20150426 ペトロはどう答えればよかったのか。彼の応えは、「私はあなたを愛することは出来なかった。」ということにほかならない。自分の弱さをみつめることなのである。弟子の誰よりも出来なかったことを認める事である。その弱さを見詰めることが出来た時に、まさに目の前の主がそのような私を赦し、寄り添い、支えてくださる方なのだということを知るのである。
 この事の後、ペトロは「逆さ十字」により死んだと言われているが、その力は、許すために来られた主を知り、受け入れたことによるのである。私たちも弱さを隠す生き方ではなく、主に知っていただき許され、寄り添ってくださる主に支えられつつ、喜びの内に歩いていきましょう。

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