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2015年4月19日 (日)

心の曇りを拭う

(ヨハネ21:1-14,使徒4:5-12,1ヨハネ1:1-2:1)
 日課は「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」と締めくくられている。最初は復活の夜に、そして二度目は一週間後の夜に、疑っていたトマスの為に現れてくださった。その後弟子たちは、今日の日課によると故郷であるガリラヤ湖畔に戻ってきており、イエスはそこに現れてくださった。これで三度目である。復活の主に三度もお会いできるなんで羨ましい限りである。それなのに彼らはイエスと気付かなかったようである。何故だろうか。
 見たのに弟子たちは分からなかった。長い時間一緒に居て、復活されたイエスにも会ったのにイエスと分からなかったのはなぜか。イエスの姿が変わっていたからだろうか。ルカ福音書にもエマオ途上の二人の弟子に現れたが分からなかったという記事があったが、復活の主は肉眼で見て直ぐには分からない存在ということなのだろうか。
 彼らは見たけれども、復活のイエスを認識しなかったのではないか。姿は変わっていなかったかもしれないが、彼らの心を占めていたのは「復活の主に出会った喜び」よりも、「捕えられた十字架のイエス」の方が大きかったのかもしれない。もっと言えば、彼らは信仰者の視線で見ていたのではなく、普通の人の視線で見ていたということにほかならない。「信仰」の大きな壁がそこにはある。神が求めておられることではなく、自分が求めていることや自分が望んでいることを信じて従うということをしてしまう。その心が主を隠してしまうのであり、漁師として現実的な生き方を選び故郷に戻ってきたのではないか。
20150419 彼らが主であると気づいたのは、網を打って多くの魚が獲れた時である。「主だ」と分かったのはイエスが愛した弟子であり、彼がペトロに教えるという出来になっているが、彼らの心の曇りを拭うのは、漁師たちを召された時のように神が働かれることによって拭い去ってくださるのである。神が彼らを探し求め、しかも「食事を用意してくださる」ことによって必要なものは神が備えてくださると告げられているのである。そのことによって彼らも復活させられ、新しい召しに応え主と共に伝道の働きに赴くのである。
 その主は、今も私たちのところに来て、必要を満たしてくださる。だから私たちも、主に委ねられた務めを果たしていきたい。

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