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2015年4月12日 (日)

聞いて信じる

(マルコ16:9-18,使徒3:11-26,1ヨハネ5:1-5)
 マルコによる福音書は当初16章8節までであり、今日の日課の箇所は「結び1,2」として後の教会が付け加えたものであると言われている。しかし、本当にそこで終わっていたのかというと、どうもそうではないと思われる。
 理由の第一は、この福音書は「神の子、イエス・キリストの福音の始め」と書き始められている。福音、即ち良い知らせを書こうとしているのに、最後が「恐ろしかったからである。」と締めくくるのはありえないと思われる。
 理由の第二は、16章7節には「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。(中略)そこでお目にかかれる。」と書いているのに、その出来事も書かずに「恐ろしかったからである」で終わるのは、余りにも不自然であるからである。未完のままで中断させられたのだろうか?それとも完結していた最後のページが早い時期に失われてしまったのであろうか。分からないが、教会はこの福音書に「恐ろしかった」で終わらないために、結びを付けたと考えられる。
 中断させられたにしろ失われたにしろ、最終ページがあったと仮定すると、16章7節の言葉の実現、ガリラヤで出会うということが記されていたのではないか。そのように推測する理由は他にもある。ガリラヤは1章14節に記されているように神の福音を宣べ伝え始めた場であり、そこでキリストの福音を完結させることが必要と思える。
 しかし今日の日課の結びは、マルコの構想にはまるで無関心である。原文ではイエスという名前が一度も出てこないし、ルカやヨハネの引用があり、内容も「信じなかった(直訳すれば不信仰だった)」ということが強調されている。「恐ろしかった」という終わりの言葉に、不信仰であったということを書き記すことで、紛失したものと併せようとしたのかもしれない。
20150412 教会の始まりは「不信仰」から始まるというのも事実であろうし、私たちのだれもが、「信じない」という事柄と向き合わなければならないことも確かである。一世紀のキリスト者たち(教会)は、そのような自分たちでありながらも、イエスが再び招いてくださっていることを、マルコの最後、失われた最後に加えたのであろう。信仰と不信仰との綱引きの中で、「信仰に身を委ねようと決断しなさい」と初期の教会の人々は、神からの声を聞き、迫害の中でも確信をもって宣教に向かっていったのである。
 彼らと共に働かれた神は、今も私たちと共にいて私たちを励まし、世に仕え、人に仕えるために私たちを派遣してくださっている。

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