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2015年3月29日 (日)

荒野の中で

(マルコ15:6-41,フィリピ2:6-11,ゼカリヤ9:9-10)
 年度替わりの時期、終わりと始まりを経験する時期であり、まるで十字架と復活の出来事を実体験するかのようである。そこには悲しみや無念さもあれば、喜びもあるだろう。心を動かされるような出来事に遭遇すると、私たちは誰かに聞いてもらいたいと思うものである。その一方、沈黙をする時というのはどういう状況だろうか。自分に非があるという時、誰にも理解されず、叫んでも誰も聞いてくれな時、諦めの思いから人は沈黙になるのかもしれない。
 今週は復活祭の前の主日、棕櫚主日として迎え、エルサレム入城の箇所が福音として読まれる。またはイエスの最後の時を覚える受難主日として迎える。今日は受難の箇所から御言を聞いていきたい。
 マルコ福音書の14章から15章に受難のことが記されている。ユダヤの指導者たちがイエスを殺す計画を立てる、香油を塗られる(死の準備を意味している)、最後の晩餐、イスカリオテのユダの離反、ゲッセマネの園の祈り、園で捕えられる、最高法院での裁判(ユダヤ人の裁判では死刑にできない)、ペトロの否認、ポンテオ・ピラトの尋問、そして今日の日課として選んだピラトによる死刑の判決、十字架への道(ビアドロローサ)、十字架刑、死、葬りという一連の出来事が日課となる。捕えられた後、イエスご自身が語られたのはピラトがユダヤ人の王かと聞いたことに対し「それは、あなたが言っている」と言われた時、そして十字架上での「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の二回だけであり、その他はずっと沈黙されている。ピラトにも「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言わせるほど、イエスには沈黙したくなるような非はない。では私は何も悪くないと叫んでも、聞き入れてもらえないと分かっていたからなのか。
20150329 イザヤ書53章、「苦難の僕」の預言がある。7節「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように。」3節には人々の嘲りが預言されている。イエスは苦難の僕であろうとされたのであり、ひたすら神の御言葉に従われたのである。十字架上でイエスが語られた言葉は、詩編22編の2節であるが、その詩編は苦しみでは終わらないことも告げている。詩編は23編で「あなたがわたしと共にいてくださる。」と告げるが、イエスは詩編の告げた救いを十字架の上で人々にお示しになったのである。私たちも主が共にいてくださることを信じて、たとえ荒野の中のような所にいても雄々しく歩んでいこう。

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