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2015年3月22日 (日)

木を見て森を見る

(ヨハネ12:36b-50,エフェソ3:14-21,エレミヤ31:31-34)
20150322 21日に東教区総会が行われ出席した。総会の冒頭に2人の引退牧師の挨拶があった。一人は、40年の牧師生活を終えられる聖パウロの松木牧師。もう一人は60才になって献身し、6年間の現役牧師の働きを終えられた板橋教会の鷲見牧師。牧師としての召しを受ける「時」とがとても異なっていることが分かる。牧師になりたいと思うその時は、一体何があるからなのか、また誰がその時を決めるのかと改めて思うのである。
 今日の日課であるヨハネ福音書は120年頃に記されている。イエスの出来事から一世紀経た時であっても、キリストを信じる者は少数であったが、それは既にイザヤが預言していると、イザヤ書6章10節の聖句を示して教えているのである。信仰は人間の決断ではできないが、頑なにするのも神なのである。私たちが信仰の歩みを始めたいという時、更には牧師として働きたいという時も神こそがご存じであり、一番ふさわしい時を選んで一人ひとりに思いを与えられるのである。
 神に相応しい時を与えられたと受け入れることは、「神を信じ、見ていることだ」とイエスは叫んで言われた。ルカ2章29節~30節にはシメオンの賛歌と言われているものがある。彼は両親に抱かれた幼子をみて、「救いを見た」と喜びにあふれた。「ヌンク・ディミティス」として長く聖餐後に歌ってきた。派遣の部は歴史的には独立したものではなかったので、聖餐後のシメオンの賛歌が終わり(派遣)でもあったので、聖餐後に歌ってきたのである。しかし意味合いからすると、単に聖餐への感謝だけでなく、救いをみて世を去るという終末的な要素もあるので、派遣の部に入れるのは相応しい。わたしたちもまた救いを見て、「闇の中に留まらない」という約束の内に歩みたい。
 日課の中には「裁く」という言葉がある。イエスは救うためにこられたので、世を裁くためにきたのではないといわれつつ、裁く方がいるとも言われる。裁きとは救いを受け入れられない状態ということであり、神を受け入れられなくなった時に、わたしたちもまた裁きの中にあるといえる。イエスを見て神を見、信じて生きていく者となりたい。

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