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2015年3月 8日 (日)

記憶する

 3月は年度変わりの月。保育園も年長の子どもたちとお別れをする月。お別れ遠足、卒園式とイベントが続く。私はチャプレンとして、また理事長として卒園式に出席するのだが、遠足にも付き添う。遠足での私の役割ははっきりしている、「男の子のトイレの付き添い」。男子トイレに入れない女性保育士の代わりに、男の子たちの用足しを手伝うのが私の役目。ただし、年長ともなれば手伝うことは何もないが、トイレ内で他のお客さんに迷惑にならないように見張るのが私の役目と心得ている。でも、子どもたちの思い出の一端に、「牧師先生がいた」ということが残ればとも思うのである。
 年長児と同じ6歳の頃、不確かではあるが記憶がひとつある、家の裏の水門の所で弟と遊んでいて、弟が川に落ちて溺れかかったことがあった程度の記憶である。そんな自分と6歳となった卒園児たちを重ねると、私と一緒の卒園遠足の記憶を留めてくれる子は皆無かもしれない。それでも良いのだ、私を思い出してくれなくても、主の祈りがフッと口から出たり、「苦しい時に神様が居てくださるから大丈夫」と思い出せるようにと、私は遠足にも付き合っているのである。とはいえ、彼らの記憶にどんなことが刻まれているかは知る由もなく、ただ神に祈るしかないが。
 旧約聖書の中にサムエルという大祭司がいる。サウルをイスラエルの最初の王とした時の祭司である。彼は乳離れすると祭司の下に預けられ育った。そして少年時代に、神様からの召命を受けた。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上3:9)とエリに言われた通りに応え、サムエルは祭司として働くことを神様から命ぜられるのである。その時サムエルは何歳だったのだろう。有名な個所なので「跪き祈るサムエル」の絵画は沢山あるが、10歳前後ではないかと想像できる。少年の時に与えられた神の御言葉の記憶が、サムエルの生涯を支えたといえよう。
 私たちは沢山のことを記憶している。全てを想い起せる訳ではないが、そのいくつかの記憶が私たちを支えているのではないか。子どもたちの支えに、保育園での私の働きのひとつがあれば嬉しい。子どもたちの歩みに神様のお支えを祈りたい。

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