« 大切なもの | トップページ | 忘れない »

2015年3月15日 (日)

滅びないために

(ヨハネ3:13-21,エフェソ2:4-10,民数記21:4-9)
 先週の日課であった宮浄めの出来事は、一方的に主張し既存の宗教を暴力的に破壊し強制したということではない。それは「新しく生まれる」ことに気付いてもらうためであった。それによって今日の日課にあるように、神は世を愛し、独り子を信じる者が一人も滅びず、永遠の命を得ること(16節)を願っておられることが告げられている。
 しかしキリスト教の歩みも、かつてのユダヤの人々のように、時の経過と共に頑なになってしまう。旧約の時代に救いをもたらすものの象徴が「律法」であったように、ルターが生まれた時の教会は「聖なる遺品や免罪符」を救いの象徴としていた。ルターは救いは神が与えてくださることを告げたために、カトリックとの争いに発展していった。その結果、教会(カトリック)から破門されたが、彼を支持する人々によって匿われ、所謂ルーテル教会が生まれたのである。時を経て、1985年からカトリックとの対話が始まり、やがて迎える宗教改革500年、2017年の時にカトリック教会と共に祝うことで、「平和を作りだす教会」のシンボル的な出来事を行えるなら素晴らしいことである。
20150315 十字架は救いのしるしである。神が十字架による救いの道を示されたのは、モーセが蛇を掲げたことからである。旧約聖書の日課に、エジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒野の中で様々な欠乏を憶え不満を言い始めたために、蛇を送り民は苦しめられたことが記されている。しかし人々の祈りにより、神は蛇を掲げさせ、それを仰ぐことで蛇の毒から守られたという出来事が記されている。古代の人々にとって、蛇は不思議な力を持つ存在で、人間を害するもの=罪や悪のシンボルでもあったが、イエスが十字架に掛けられることで、蛇が掛けられたように、イエスの十字架も癒しと救いのシンボルになったのである。
 十字架というシンボルを掲げる意味はただひとつ、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」にほかならない。
 「私たちが滅びないために」主が働いてくださった十字架を想い起し、私たちもまた愛する者が滅びないために仕えていけるように祈っていきたい。

« 大切なもの | トップページ | 忘れない »

説教要旨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 大切なもの | トップページ | 忘れない »