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2015年3月 1日 (日)

頑なさを突き破る

(マルコ10:32-45,ローマ4:13-17a,創世記28:10-22)
 日課はイエスの三度目の受難予言と二人の弟子の願い(無理解)である。これまでの二度の予言の時も、弟子たちの無理解が記されている。最初の予言(8:31~)ではペトロがイエスをいさめ止めさせようとするが、逆にイエスに叱責された。二度目(9:31~)の時は、弟子たちは誰が一番偉いかを論じ合っていた。そして今回は栄光の座の左右に座らせて欲しいという願いであり、弟子たちの無理解がどんどん深まっていることが分かる。イエスの予言の意味が分からなかったからだろう。
 内容をみてみる。引き渡され、死刑が宣告され、ローマ人に引き渡され、苦しみを受け、殺され、復活する。これまでよりも、更に詳しく、しかも「エルサレムに上って行く途中」ということから、目的地まではっきりしているのである。
 エルサレムに上って行くとき、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたとある。二つのグループがあるというのだろうか。そのように訳してあるものもあるが、「弟子たちは驚き、従いながら、恐れた」と訳すのが良いのではないか。彼らは驚いているのである。恐れているのである、エルサレムに行くことを。予言が現実味を帯びていて、だから驚いたのであり、恐れたのである。
 ではなぜ、ヤコブとヨハネは、イエスに栄光を受けた時に、自分たちも栄光を受けたいと願い出たのか。驚き恐れた彼らの姿とは対照的ではないか。むしろ疑問にすら思える。
20150301 驚き恐れた弟子たちと、栄光の座を願い出た二人。行動は極端であるが、両方の行動に共通の事がある。それは、彼らの無理解ということである。恐れる事も、栄光を願うことも、いずれもイエスの予言を理解していないということにおいて、共通しているのである。
 ヤコブとヨハネが願ったという出来事は、事実かどうかよりもむしろ、主眼は彼らの無理解の意味を悟るようにと記されているのではないか。彼らがすべきことは、「ほかならないわたしこそが受ける」ことをあなた方もするということを伝えたかったのではないか。
 自分のためにではなく、このわたし(イエス)のために生きる生き方へ招かれているのである。それにはイエスの言葉を聞くこと(予言)、他者の声を聞くことこそが大切な事なのである。

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