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2015年2月 1日 (日)

寄り添うお方

(マルコ1:29-39,1コリ9:16-23,ヨブ7:1-7)
 先週に引き続き安息日の出来事であり、一日の出来事である。しかし、宗教的な区切りで言えば、二日間にわたる出来事が記されてる。そして宗教的区切りである安息日と次の日との間には大きな境目がある。
 32節には安息日が終わっって人々がドッとイエスのもとに押し寄せてきたことが書かれているが、それは安息日の間はイエスのもとに行くことができなかったということである。宣教の始まりにイエスが向き合われたのはこの境目ということを伝えようとしているのではないか。
 ガリラヤは辺境の地である。「文化・経済・政治的に線引きされた社会」がそこにある。異教徒に接する所でもあり、「宗教的な線引き」が目に見えるところであり、汚れた霊を通して、神と神に敵対する存在の境目も明らかになる。
 病人を癒すことは医者の仕事であって、それも労働であると規定されている。そのような律法を何故守らなければならないのかという根拠は、レビ11:44の戒め「私はあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。」であるが、それを大切にすることでユダヤ人のアイデンティティーは確かめられていくが、ユダヤ人の律法主義と発展していったのである。
 日が沈んでやってくる人々の中に、律法という大きな壁(境目)があることを見抜かれた。それは人を神から引き裂いていく力でもあった。イエスはシモンのしゅうとめのそばに行ってて手を取り、やってくる多くの人々をいやしながら、神から引き裂く力に向き合われたのである。それによって多くの人を救うためであった。20150201
 その闇が開けないうちに、イエスは祈りに出掛けられた。神と敵対するものに立ち向かうかのように、あるいは律法や様々な苦悩にある人に寄り添うかのように、まだ暗いうちに祈りそして出掛けられるのである。
 聖餐式を通して寄り添ってくださる主を心に刻み、総会を通して私たちも寄り添うことができるようにと協議したい。

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