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2015年2月22日 (日)

荒野の中で

(マルコ1:12-13, 1ペトロ3:18-2,創世記9:8-17,)
 (説教交換のため小岩教会で行った説教要旨です。)20150222
 私の中にある小岩教会の最初の記憶は40年程前のことである。その時に礼拝に出席したはずだが、記憶にあるのは故江口先生のご自宅で朝食をいただいたことしかない。印象に残ったことが記憶として残っていくのだろうから、朝食がとても印象的だったのだろう。
 今日の日課は荒野の誘惑の箇所であるが、マタイとルカは詳細にしかも同じような内容で荒野の誘惑の出来事を記す。しかしマルコはそうではなく、実に簡単な描写である。違いはどこから生まれるのだろうか。マタイとルカは恐らくマルコとは違う資料(発見されていないがQと呼ばれている福音書)を参考にしたと思われる。それはマルコ福音書が書かれる少し前といわれているので、マルコはこれを知っていた可能性もあるがマルコはQ資料を用いなかった。なぜだろうか。
 マタイやルカでは荒野に導かれたイエスが悪魔の誘惑と闘い、3つの問答を通して毅然とした言葉で悪魔の誘惑を退けたことが記される。信仰生活の基本姿勢が示される。やがてこの物語の中で語られたイエスの言葉は、世俗を離れて隠遁生活をする修道士達の規範になっていく。
 マルコの「荒野の誘惑物語」には、悪魔を退けていくようなイエスは描かれない。むしろマルコはQ資料の悪魔の誘惑の描写を捨てたといえなくもない。なぜなら、日課には「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とあり、野獣とさえ平和理に過ごすイエスの姿と、天使たちの給仕(ディアコニア=食卓の世話)によって満ち足りて過ごすイエスの姿ではなかったか。そこにはマタイやルカが記すような、厳しい誘惑との闘いは記されないが、むしろ、マルコの描く「荒野の誘惑物語」に於いては、イエスにとって世俗と隔絶した場所で天使に守られながら安穏と滞在することこそが、まさに誘惑だったと言っているかのようである。
 辛く悲しい荒野がある。一方で平和で穏やかな中にも荒野がある。即ち、神から引き離そうとする力(悪魔)は、いつでも私たちの傍に潜んでいるのだが、そこに共にいてくださるイエスを見出すなら、力強くそして心から安心して生きていけるはずである。

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