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2015年2月15日 (日)

聞く耳のある者は聞きなさい

 時間をいただいて、父の法要のために帰省した。父を看取ってあげられなかったという悔いと、老いが酷くなった母への親不孝の詫びを兼ねて、両親の願いどおり仏式での法要を行ってきた。仏式の法要なので、「お経を上げてもらう」ということが功徳ということになるのらしい。「仏教では、言葉というものを大変重視する。お経というこの言葉は仏教でいうところの智慧というものである。その内容は、人をして良き方向に向かわせしめる言葉が並べられているわけである。だから、意味がわからなくても、これを仏様に向かって発するということは、カある祈りの言葉を発していることになる。言葉というものは目にも見えず、形もないので、とかくなんの力もないように考えがちであるが、その発せられた言葉を相手が受け取れば、その時点からカの作用が始まるわけである。励ましの言葉やほめ言葉も、その言葉は、それを受け取った瞬間からカを発するのであり、言葉を発する人が意味がわからなくても、その受け取る相手がそれを解すれば、力となって働くわけである。」(「先祖供養をしなさい」三浦道明著より)長い引用になったが、読経中心で行われる仏式の葬儀の考えが良くわかるし、実際、我が家の法要でも、全く何を言っているのかは私には判らなかった。但し、横に座っていた私が経文を見ていて、適当に飛ばして読んでおられるなぁと思ってしまったのは僭越だったかもしれないが、単に読経を聞いていた母には「いつもより長くてありがたかった」ということだったようだ。分からなくても言葉に力があるのだから、長いほど供養になるからである。
 教会で行われる葬式や故人を憶えての記念会は、参列者に参加してもらうのが通例である。聖書の言葉を聞き、讃美歌を共に歌い、牧師の説教が語られる。それらのどのひとつにも「分からない言葉」はない。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(ルカ8:8等)と言われた時も、しっかり聞かないと分からないという意味で語られたのではなかった。人々が理解できる言葉で語りつつ、その上で神の言葉として受け止めなさいと言われたのであった。言葉そのものよりも、語られるイエスが、言葉をくださる神が私たちに働きかけてくださるのだと教えてくださったのだ。御言葉を聞いて、心から「アーメン」と告白する歩みを続けたい。

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