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2015年2月 8日 (日)

意思

 父が亡くなって6年、今年は仏式でいう七回忌となる。父は私が牧師となることに反対はしなかった。父の叔父はクリスチャンであったし、従兄弟には牧師もおり、私が将来のことについて悩んでいた時も、父はその従兄弟の方に相談にいくようにと手配してくれた。それでもキリスト教とは意識して距離を置こうとしていたのは、父が長男だったからではないかと思っている。私は父の死に目に会えなかったが、亡くなる直前まで「康文はまだ来ないのか?」と言っていたと聞くと、父は私に、何か期待し引き継いで欲しいと思うようなことがあったのではないかとフト思う。勿論、今となっては聞くことはできないのだが、年月を重ねる毎に気になっていく。父の意思が何であったかは天国で再会して聞くしかないのだが・・・。
 「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)今年の私たちの主題聖句である。「キリストが私たちに仕えてくださったように、私たちも隣人に仕える者となれるように、そして何よりキリストの手足となることが、私たちの喜びとなりますように。」と主題の意味を総会資料に書いた。信仰が与えられキリスト者としての歩むことは、「キリストの意思を引き継ぐ歩み」だからである。
 先週の朝のNHKの番組で解説委員が語り出した。「冒頭ですけど、すいません。ニュースではテロ対策とか、(中略)今、声高に色々と議論され始めているけど、ここで一番、今僕らが考えなきゃいけないことは、後藤健二さんが一体何を伝えようとしていたのか、ということ。戦争になったり、紛争が起きると弱い立場の人たちが、そこに巻き込まれてつらい思いをするということを、彼は一生懸命伝えようとしてたのではないか。」この言葉を紹介した人のコメントはネットで400万回読まれ、8万人の人が共感して紹介してくれているという。私も同じ番組を見ていて大きく頷いた一人。「イスラム国」と主張している集団に理不尽にも殺害された後藤さんを悼むのに、「テロは断固として許さない」と語調荒げて叫ぶことよりも、敵味方の隔てを超えて戦争や災害で苦しむ人々に寄り添い支援すると主張することが、彼の意思に添うものではないか。ご遺族に主からの慰めを祈りつつ。

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