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2015年2月15日 (日)

真の姿を見る

(マルコ9:2-9,2コリ3:12-18,列王下2:1-12a,)
 教会の半年は、主の生涯を辿る。今週の水曜日、灰の水曜日、その前の主日を変容主日としてルーテル教会は守ってきた。この日を境に主の歩みは十字架へと向かうので、主の生涯においての大きな節目(区切り)である。イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れるということだけでも大きな節目であることがわかる。
 その場に立ち会ったのはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人であった。三人だけを連れて行かれたのは、今回だけではない。マルコ5:21以下にヤイロの娘の癒しがあるが、ヤイロの娘の甦りを目撃したのがこの三人であった。その三人が山に登ることを許されたということ事態が、何か特別なことが起こるということを暗示しているのである。
 高い山は神顕現の場所。シナイ山でモーセが十戒を持ち帰った時に、顔の肌が光り輝いていた。今日の日課ではイエスの全てが輝いているが、神の現れを光り輝くことで表しているのであろう。最初と最後の預言者といわれるモーセとエリヤが現れることで、世の終わりまで神が支配されることを現す。その出来事は「神の力が溢れている出来事」(マルコ9:1)にほかならない。
 その光景に三人の弟子は非常に恐れ、そしてぺロトが小屋を建てると申し出る。栄光の中に留まりたかったからであろう。その時、神の声が聞こえる「わたしの愛する子。これに聞け。」である。これが神の応えでもあった。この言葉は、イエスが洗礼をお受けになった時と同じ内容である。一体、どんなことを聞くのか。20150215
 日課の前の出来事を振り返ると、ペトロがイエスに「あなたはメシアです。」と告白し、次にイエスによる十字架の予言がある。その際、ペトロはイエスをいさめたとあった。つまり、苦難の出来事を受け入れなかったというのである。栄光に留まりたかった彼の姿がそこに重なる。彼は苦難ではなく、栄光を求めていたのである。それに対して神は言われる「これに聞け」と。イエスの苦難姿、即ちイエスの真の姿がそこにあり、それこそが栄光の姿にほかならない。
 弟子たちが、そして私たちが従うべきなのは、栄光の家に住むイエスではなく、十字架を背負って歩まれるイエスであり、この地の上に生きる私たちの、本当の喜びがそこにある、イエスの喜びが「私たちのために十字架を背負う」ことだったように。

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