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2015年2月 8日 (日)

頑なさを突き破る

(マルコ2:1-12,1コリ9:24-27,ミカ7:14-20,)20150208_3
 マルコは4人の漁師を弟子にした後、癒しの出来事を先ず記す。権威ある者として悪霊と向き合い、大勢の病人を癒し、悪霊に物を言わせず、重い皮膚の病の人の癒し、今日の日課の中風の人の癒しと続いている。
 聖書は難しい書物ではない。悪霊とは何かとか、信仰とは何かとか、律法学の者たちはどんな存在かとかいう前に、人々の中におられるイエスの姿を聖書から聞き、そんなイエスを喜びをもって迎えたのではないか。このように始まるマルコによる福音書をの話を聞きたいと礼拝に足を向けたのではない。
 そのような人々の思いを受け止めつつ、もう一度日課に目を向ける。ペトロの家に戻る。大勢の人がやってくる。4人の男が中風の人を運んでくるが中に入れない。彼らはそこで諦めたのではなかった。何とかしてみてもらうために、彼らは非常手段に訴えた。屋根を破って、中に降ろしたのである。
 イエスは、そこに「信仰」をみたと、記されている。信仰とは何かというような難しい議論はそこにはない。彼らの行為が信仰なのである。「この方なら治していただけると信じた」ということである。頭の中で「イエスは神の子キリストだ」などということではなく、信頼してイエスに向かっていくということである。その彼らに向かってイエスが言われたことは「あなたの病気はもう治った」ではなく、「あなたの罪は赦される」であった。イエスには「病気や障害という人の不幸は罪の結果である」という思いは無い。「今、神がこの人に何をなさろうとしているか」ということだけを見つめようとしておられる。だからこの箇所でも、この人を「子」として受け入れ、罪をゆるすことが神の望みなのだと宣言しているのである。
 その一方、律法学者たちはどうであったか。病気に苦しむ人に「罪びと」のレッテルを貼り、罪は神しかゆるせないから自分たちは何もできない、目の前の人の苦しみを見て見ぬふりしている自分たちの態度を正当化してしまうことになる。イエスは違った。その人の苦しみに向き合い、「神はこの人を決して見捨てていない」という確信を持って彼と関わっている。
 人々はそのイエスの話を聞きにきたのではないか。人々が集まる所で、聖書は読めないけど、イエスが病人を受け入れてくださる話を、「床を担いで家に帰りなさい」と言ってくださる話を聞きたくて・・・。

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