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2015年1月

2015年1月25日 (日)

神の介入

20150125(マルコ1:21-28,1コリ8:1-13,申命記18:15-20,)
 主は宣教を始めるにあたり、先ず4人の漁師を弟子とされた。(先週の日課)
 38節までは時間を追って出来事が進行していき、全部が丸一日の間に起こっている。マルコは、イエスのガリラヤでの活動の様子を、カファルナウムでの典型的な一日を語ることによって、イエスの宣教とは何かを伝えようとしていると思われる。
 カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町。異邦に接する辺境の町であり、政治経済文化など、所謂陽の当たらない街といえる。だがイエスは、ここを福音宣教の出発点とされた。イエスの眼差しが、貧しい人々や抑圧された人々、罪人たちに向けられていたのは、カファルナウムを宣教開始の地とされたことと無関係ではなかろう。イエスはカファルナウムを「自分の町」(マタイ9:1)とさえ言われたのだから。
 さて、その日は安息日であった。それは金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日である。エルサレムのユダヤ人は神殿で礼拝したが、地方には町ごとに会堂があり、ユダヤ人はそこに集まって礼拝をしていた。また会堂での説教に、特別な資格はいらなかった。
 イエスも会堂で人々に教えられたが、人々はその教えに驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたからであった。律法学者は多くの知識をもち、人々を教えた。それを用いて自分の意見を権威付けた。
 しかしイエスは、「権威ある者」として語られたという。「私は・・・である」、「はっきり・・私はあなたがたに言う」というように断言的に語られた。更に、汚れた霊(神に反する力)は「私にかまうな」と関係を断ち切ろうとするほどに、イエスの教えには力があった。イエスが宣教の始まりに「権威ある者」として振舞われたのは、神が働いてくださることを人々に伝えるためであった。
 この神が今も権威ある者として今も私たちに働き、閉ざされた私たちの心に介入し続けてくださっている。

息をする

 スーパーの野菜売り場に、ビニール袋に一つひとつ丁寧に入れられた野菜が並ぶ。日本ならではの販売方法だと思うが、主眼はサービスではなくて品質管理、即ち野菜を新鮮な状態で保存し販売するためなのだという。
 野菜は収穫した後も呼吸をしている。呼吸をつづければ老化して腐敗していく。生きているのだからそれは当然のことである。腐敗を少しでも防ぐためには、野菜を冬眠させるのが一番だが、そのためにビニール袋が使われる。ビニール袋には目に見えないミクロの小さな穴が開けられ、袋の中の酸素濃度をコントロールすることで冬眠させられるという。密閉した方が良さそうな気がするが、そうすると必要な酸素は入ってこず、野菜が放出する二酸化炭素だけになってしまい、野菜は死んでしまう。適度な酸素と二酸化炭素にするために、ビニール袋の穴の大きさや数は野菜の種類や量によって微妙に異なる。だから、ほうれん草の袋に小松菜を入れても効果は無く、同じほうれん草用でも200g用に100gのほうれん草を入れても効果は余り期待できないし、それどころか逆効果にもなってしまうのだという。適度にあけられた微細な穴を使って呼吸をつづける野菜たち、そのおかげで収穫から数日たってもみずみずしい野菜を、私たちもいただけるということである。
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)ここで語られている息は、生命維持のための息というだけではない。「主は人を造って、体の真ん中に心を置き、それに霊と命と知性と全能の神の息吹を送り込まれた。」(エズラ16:62)とあるように、心で呼吸する息である。おそらくその息は、「愛」で成り立っている息に違いない。野菜が相応しいビニール袋で守られているように、神様は「愛という息」が途絶えないよう一人ひとりに相応しい恵みを与え、私たちが安心して「愛という息」を吐くことが出来るようにしてくださっている。
 ビニール袋入り野菜を購入したら、次からは同じ袋に入れておき、冷蔵庫を開ける度に「元気かい?」と声でも掛けてあげようかな。

2015年1月18日 (日)

時は満ちた

(マルコ1:14-20,1コリ7:29-31,エレ16:14-21,)
 今日の日課はイエスの宣教の始まりの出来事である。きっかけはヨハネが捕えられたことだと記されている。同じことについてマタイでは「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(4:12)とあり、ヨハネの逮捕がイエスのガリラヤ行きの理由だったような印象があるが、マルコは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と言っている。つまり、ハネの活動の時期とイエスの活動の時期をはっきり区別しようとしている。「準備の時は終わり、いよいよ神の救いが実現する時が来たのだ」と、大きな区切り、はっきりとした区切りである。
 その区切りがもたらすものはは良い知らせであり、良い知らせの中身は、「神の国は近づいた」ということである。神様が王として治められる国が、「近づいてもうここに来ている、ある意味で実現し始めている」という意味であり、救いのメッセージ「福音」にほかならない。
 では私たちはどのように応答するのか。「悔い改めて、福音を信じ」ることだと言われている。具体的な事として、4人の漁師の召しがある。20150118
 漁師は特に貧しく、身分の低い人ではなく、「無学な普通の人」(使徒言行録4:13)、つまり私たちと変わらない人々である。普通の人をイエスは弟子にしたのである。同じ出来事について、ルカはイエスの不思議な出来事(大漁)を見て彼らは従ったと考えているが、マルコは細かな説明もなく、「イエスに従うとはこういうことなのだ」と言おうとしている。私たちが先生を選ぶのではなく、イエスが、神が私たちを選び招かれるということにほかならない。
 4人の漁師は、イエスの神の国への招きに最初に応えた人であり、イエスのメッセージを自分のこととして真正面から受け止めた人である。その時、彼らの生き方が変わっていったように、私たちもイエスのメッセージに応えて生きようとしたとき、自分の周りで何かが変わり始めるのである。
 神の恵みで満たされた喜びに、皆様が包まれますように。


シルエット

 晴れた日の夕暮れに江戸川の土手を散歩すると、夕焼けの中に富士山、スカイツリーそしてビル群のシルエットを眺めることができる。特に冬は空気が乾燥しているので実に鮮やかである。カメラを構えている人も多く撮影には絶景といえる。中でも周囲より頭一つ飛出し凛としてそびえ立つ富士山の姿は美しく、古の人々が自然に「霊峰」と言ってきたのも頷ける。朝日に照らされ輝く富士山は神々しく輝いているが、夕焼けの中の富士山には疲れた心を癒してくれるような優しさがある。それはシルエットが与えてくれる優しさだと、西の空を眺めながら思うのである。
 シルエットの語原は、フランスのエティエンヌ・ド・シルエットに由来する。18世紀半ばのフランス人で、財務大臣を務めていた。当時フランスは戦争が長引いたことで財政難であり、富裕層に対して厳しい倹約を要求していた。その一つに華美な肖像画ではなく、黒一色で塗りつぶしたものにせよと主張し、輪郭を主とした肖像画が流行るようになり、それをシルエットと呼ぶようになったという。ドイツの文豪ゲーテもシルエットを好んでおり、作品の中でも思いを寄せる女性のシルエットを作るくだりがある。最近は映像の中でドラマティックな演出にするためにシルエットが取り入れられることもあるし、交通標識にもシルエットを使って素早く認識させようとしているものもある。光と影、黒一色という画像(映像)が、人の心には印象深いものになるのではなかろうか。(以上「ウィキペディア」など参照)
 シルエットは輪郭だけで、人や物を伝える。輪郭はありのままに表現されているとはいえ、その他は観る者の想像力を必要とする。だからシルエットは、観る者の心を映すものなのかもしれない。心が笑顔ならシルエットも笑顔、涙した心には泣いた顔が・・・。文豪ゲーテは女性のシルエットを眺めながら、どんな表情を思い浮かべていたのだろうかと、思わず考えてしまった。
 聖書は神様について教えてくれるものであるが、神様について全てを記し尽くしているのではない。むしろ神様のシルエットであり、私たち一人ひとりはその時の心の有り様に相応しい神様の姿を見出せるようにしてくださっているのだ。
 今日、シルエットの中で、神さまは笑っておられますか?

2015年1月11日 (日)

特許

 未來の自動車といわれる「燃料電池車」に関する特許を、トヨタ自動車は無償で開放すると発表した。翌日の新聞に次のような記事が載った。「自動車業界の競争はいまも激しいはずだが、思い切ったトヨタの決断である。世界に先がけて売り出した燃料電池車の特許約5680件を無償で開放するという。ニュースに驚いた人は多かったろう。そして拍手を送った人も▼水素と酸素を反応させて、排ガスを出さずに走る。苦心の技術をライバル社に提供するのは、参入を促して市場を広げるためだ。『戦略』ではあろう。しかし、ものづくりを競い極める企業として、なかなかできることではあるまい。」(朝日新聞1月8日天声人語より抜粋)
 そもそも特許とは「行政機関が特定人のために権利・能力・資格などを設定し,法律上の地位を与えること。」(大辞林)であって、一定期間は権利を独占できるものである。特許をとるためには膨大な書類が必要になるし、多額の費用も掛かる。通常は特許権が切れるまで保持したいと思うものだろうが、燃料電池車が普及しなければ特許も宝の持ち腐れでしかない。その決断が企業にとってどうなのかという判断は私にはできないが、環境にも優しい燃料電池車がより安価になれば、一消費者としては大いに歓迎したい。それにしても、新しい車のための特許が5680件もあるのは驚きではあるが・・・・。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)人々はイエスについて、権威ある新しい教えをする方だと知っていた。奇蹟をみた人々は「新しい王」と期待しただろうし、支配階級にいる者たちは恐れを覚えたかもしれない。イエスは確かに王として、そして救い主としてこられたが、それは権威でも力でもなく、十字架という誰もが想像できない仕方で世を治め、人を救われた。誰も想像できなかったし、誰にもできない、主イエスのみがなしうる救いの「特許」であった。この特許は今も主が保持しておられ、それによる恵みを今も私たちにもたらしてくださっている。

2015年1月 4日 (日)

 今年の干支は羊。羊は聖書では最も大切な動物として描かれている。エデンの園を追放された人間が最初に飼った動物が羊である。(創世記4:2)またイスラエルの民自身も羊に譬えられ、イスラエル(羊)を導く神は羊飼いの比喩で語られる。そして良い羊飼いと従順な羊こそが、神が求めておられる信仰共同体の姿なのだと、聖書は私たちに告げている。聖書に登場し、干支の中に羊が取り上げられているので、日常羊に触れることは殆どない私たちにも、羊は随分身近な動物のように思えるのだろう。
 草食動物の羊は、群れたがる性質があり、群れから引き離されると強いストレスを受ける。先導者に従う癖も、群れから引き離されないための行動であろう。また羊の聴力は優れており、水平に細い瞳孔で頭を動かさずに自分の背後を見ることができるような優れた周辺視野を持ち、群れを見失わないために与えられた能力と思わせられる。ところが奥行きはあまり知覚できないために、影や地面の窪みがあるとひるんでしまい、先に進まなくなることもあるという。そのような欠点は、群れることによって危険を察知し回避することに繋がっているのだろう。臆病で弱い羊が生きていくための術を神は与えてくださっておられるし、先導する者に従っていく羊の姿に、私たちはこれからも多くを学んでいくことだろう。
 羊についてもう一つ大切なことがある。羊は犠牲的役割を果たすシンボルであるということだ。創世記22章にイサクを捧げる出来事が記されている。焼き尽くす捧げものとしてイサクを屠ろうとするアブラハムに、神は彼の信仰の確かさを確信し、雄羊を焼き尽くすことでイサクの替わりとされた。出エジプトの時には、「10番目の災いとしてエジプトの全ての生き物の初子を殺す」と言われた神だが、傷のない一歳の雄羊の血を鴨居に塗ることで、その家は通り過ぎていかれた。即ち、主の過越しであり、救いの為に羊が犠牲として捧げられたことを意味している。キリストが来られた時ヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言ったのは、まさにキリストもイサクや出エジプトの時のようにご自身を犠牲として捧げる方だと指し示したのである。
 「神の小羊」に、いつにもまして心を馳せる年にしたい。

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