2017年10月15日 (日)

アドバルーン

 デパートの屋上に揺れるアドバルーンを見ると、文字の意味よりもデパートの食堂のカレーライスを思い出していた少年の頃。めったに連れて行ってもらえないデパートは、買い物する所ではなく外食する唯一の場所であって、そこの屋上にはいつもアドバルーンが揺れていたというのが私の記憶である。あの頃(半世紀前)は至る所でアドバルーンを見た。「アド=広告」「バルーン=風船」という意味だから、当然広告のために掲げられているのだが、少年期の私には「美味しいカレーがあるよ!」と誘っているようにしか思えなかった。アドバルーンを滅多に見掛けなくなった最近は、そんな思い出は心の奥底に沈めてしまっていた。屋外広告であるアドバルーンは、消防署への届け出が必要であり、高さは40mまで、敷地内からはみ出してはならず、強風で45度以上傾く場合は掲揚を中止する等の制約があり、夜間や強風時の係留スペースの確保も必要となる。1球につき3㎡が必要で、係留ネットを被せて固定しておかなければならないし、突風などのために監視員の配置も欠かせない。風任せのノンビリした風景のようにみえて、様々なことに気遣いが必要なアドバルーンである。(丸八宣伝HP参照)
 突然の解散により、国政選挙が行われることになった。様々なドタバタがあり批判合戦があり、そして「国の為、人々の為」という言葉が薄っぺらな紙きれが舞うように耳元に振ってくる。だからこそじっくりと公約を聞いて一票を投じたいのだが、乱立するアドバルーンのように見える。公約というアドバルーンが「選挙終了」の風と共に飛び去ってしまわないように願いたいものだが…。
 「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と福音宣教のアドバルーンを掲げて、主は歩みを開始された。妬みや妨害の強風もあったが、最後まで掲げ、終わりは十字架という係留地にアドバルーンを下ろされた。しかし、それは再び弟子たちによって掲げられ、今も世界の各地で人々に福音を告げている。私たちはその監視員であって、目をそらしたらそれは何処かに飛んで行ってしまうと心して過ごしたい。
 投票日まで一週間、飛んでいってしまいそうな「公約というアドバルーン」を見極め、監視員として責任ある一票を投じよう。

2017年10月 8日 (日)

排除しない

 「罪人」という言葉は元々は「目的を外す」という言葉である。「神が望んでおられる人間の目的から外れて生きている者」ということになる。そして最初の人間アダムが罪人であったように、「罪」から無縁な人間は誰もいないことを聖書は告げている。しかしそのことを理解するまでには、ルターの誕生を待たなければならなかった。それまで殆どの人々は「律法を守り尽くすことで罪人から離れて義人になる」と受け止めていたからである。その結果どうであったか。
 「神様、わたしはほかのひとたちのように、奪い取る者、不正な者、貫通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とファリサイ派の人は祈った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と徴税人は祈った。(ルカ18:9~14)律法を守り尽くすことを目的としたファリサイ派の人は、罪人や徴税人を断罪し除外してしまった。その振る舞いは神に成り代わったかのようであった。徴税人は自らを振り返り神の目的から外れてしまったことを悔い、罪人であることを告白し神の前にひざまずいた。その結果、義とされたのは徴税人であった。
 だからといってイエスは、神がファリサイ派の人を排除されるのだということを言うためにこの話をされたのだろうか。答えは「否」である。イエスはこう言われ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」(マタイ11:28)と。ファリサイ派だから徴税人だから排除するということはない。いや、神様の前においては、全て罪人であってかけがえのない「あなた」なのだと。
 「排除します。」新しく立ち上げた政党の党首がためらわず、しかも表情も変えずに言い放った言葉を聞いた瞬間、私の心は凍った。「一緒に活動することはしません」等々、言い方はあるだろうと思いつつ、「この人には思想信条が合わない人は人間ではなくゴミのように排除して良い存在でしかないのだ」としか思えなかった。私たちは「共に生きる社会」をこそ求めていきたい。
 今日も「イエスの死による贖いから排除される人などいない」と教会の塔屋のてっぺんから、十字架が道行く人々に呼びかけている。

2017年10月 1日 (日)

主が開いてくださる

 月に一度、保育園の子どもたちが礼拝のために教会にやってくる。9月末、保育園から「今日は月組(4歳児)と光組(5歳児)○○名でこれから教会へ行きます。」と連絡を受け、子どもたちを迎えるために会堂の準備を始める。聖壇を整え、冬ならストーブ、夏はエアコンのスイッチを入れるのだが、その日は秋の青空が広がり爽やかな空気に包まれていたので、「エアコンよりも窓を開けて爽やかな空気で子どもたちを迎えてあげよう」と、会堂の窓を開けることにした。先ずは一階の礼拝室の窓。次に集会室の窓を開けた時、不意に神学生として市川教会に通っていた頃(ほぼ40年前)の日曜日の懐かしい風景が蘇ってきた。開いた窓の前に古財牧師がいて、日曜学校の教師であった私たち数名の青年が、あれこれ話し合っていた風景を…。教会の窓を開けたら記憶の窓を主が開いてくださり、「私の市川教会の原風景」を見せてくださったみたいであり、窓から吹き込んでくる秋風にしばし身を委ねた。
 フィリピという都市にリディアという婦人がいた。ある日彼女がいつものように川岸の祈る場所にいた時、一人の男性が近づいてきた。彼の名前はパウロといった。彼は「イエスが死者の中から復活し、神の子であった」ということを熱心に話した。その時、「主が彼女の心を開かれた」ので、パウロの話を注意深く聞き、ついにはリディアもその家族も洗礼を受けた。(行伝16:11~15)心を主が開いてくださるのだが、私たちはリディアのように開いてくださった心を受け入れているだろうかと思う。
 私たちは洗礼を受けてクリスチャンになる。その際、私たちが心しておくことは、「洗礼は私が決断したのではなく、主が与えてくださったものである」ということである。換言すれば、「主が心を開いてくださらない限り、洗礼は起こらない。」ということにほかならない。だから「洗礼を受けたい」という思いを告げられたら、それだけで十分だと理解し、洗礼を授ける。ただし、洗礼を受けてクリスチャンとしてその後どのように生きるかということは、教会の責務として伝えていく。そうして教会は二千年の歩みを繋いできたのだと思う。洗礼を受けた後も、主が開いてくださる心は、様々な事柄の中に恵みを見出せてくださる筈である。
 窓を開けて迎えた保育園の子どもたちの反応は、「暑いね!」の一言であった。記憶を辿り感慨深さにふけった私の時間が、ガラガラと崩れ落ちていった……。

2017年9月24日 (日)

速やかに

 「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」(詩編70編6節)危機に瀕した詩人の叫びである。誰にも危機は訪れる。私たちは誰に「助けて!」と叫んでいるだろうか。
 「台風襲来」と予報を聞いていたものの、さほどの備えもしないままに寝付いた先週日曜日の夜。深夜に激しい風が吹いていたのを夢心地で聞きながら迎えた翌朝、寝ぼけ眼の私だったが、「屋根が壊れた!」という妻の一言で覚醒。「それは大変」と外にでてみると、牧師館の軒の一部が損壊しているのが見えた。地面には破片が落ち、軒天を支えていた金属板の一部がぶら下がったままであった。現状を見て屋根の上が壊れていたのではなかったので少しホッとしたが、そうはいっても早急に修理しないと雨風によって被害が増すことは確実である。休日ではあったが早々に馴染みの工務店に電話すると、「明日、伺います」と返事をいただき、一先ず安心した。ところが、それから間もなくして工務店のご主人が状況を見に来てくださった。「屋根と言われたのが気になって、とにかく様子だけでも見ておこうと思って」と。被害の様子を丹念に見た後、出来るだけ早く手配しますとおっしゃってくださった。「本当にありがたい!」と心から思ったものであった。
 アダムを造られた神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章)と言われた。即ち「人は助けを必要とする存在」として造られたのだから、助け手を心しておくことは必定のことなのである。ルターもまた、困った時や誘惑にあった時に対して、「誘惑に襲われたら、仲間を捜しなさい。自分の部屋、家を出て、友人を捜しなさい!誰かと話しなさい!」と忠告してくれている。私たちが助け手を必要とするからであるし、それは神様の御心に適うものなのであって、しかも神は速やかに助けを送ってくださる。詩編の詩人の叫びを、私たちの叫びを、神が聴いておられない筈はないからだ。ただし、その助け手に私たちが気づいているかどうかは別の問題であるが…。
 速やかに来てくださった工務店さんの配慮により、工事に直ちに取り掛かってくださった。その存在があるだけで、どんなに心強いことかと感謝している。

2017年9月17日 (日)

あなたを知っている

 10日午後、千葉教会で今年の総武地区合同礼拝が行われた。講師の湯川先生はルター研究所の所員で、ルター関係の書物をいくつか著しておられる。今回は「ルターの家庭生活」と題して講演してくださった。神学的なことよりも日常的なことやルター夫妻の心象に触れてくださり、興味深い1時間半の講演であった。
 講演後、先生が私の所にも挨拶に来てくださったので、恐縮しつつ「初めまして」と挨拶したら、「いえ、私は何度かお会いしてますよ」と。だとしたら私が忘れてしまっていたのだということなので、「申し訳ありません」と失礼を詫びた。すると「いえ、市ヶ谷教会に先生がお出でになった時にお見掛けしてるだけですから。」とのこと。そういえば、市ヶ谷の牧師就任式に礼拝に行ったこともあるし、「東教区宗教改革記念礼拝」の担当常議員だった時にも市ヶ谷教会に伺ったことがあった。市ヶ谷教会員である湯川先生が、私に何度も会ったとおっしゃったことも納得がいく。弁解する訳ではないが、私の方は多くの人の中のおひとりが湯川先生であったがゆえに、記憶がないのも仕方がないことではないか!そんなやり取りがあったからという訳ではないが、親しみやすい先生の著書を少し買い求めてみようと思いつつ帰路に付いた。
 エレミヤを預言者として召された時、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。」(エレミヤ4:5)と神は言われた。エレミヤは特別な人だったから神はご存知であったのだろうか。木の上にいたザアカイに「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」(ルカ19:5)と声をお掛けになったが、徴税人の彼をどうしてご存知であったのだろうか。数十人の方とお会いしてもその一人ひとりを知ることには困難さを覚える私からすれば、神様は一体どうやって見分けておられるのだろうかと思ってしまう。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(エフェソ4:7)と聖書には約束されている。つまり、全能の神は私たちにははかり知ることのできない力で、私たちを知っていてくださるということに他ならない。だから、神様がどのように私のことをお知りになるのかを考えることよりも、「あなたを知っている」と語ってくださる神に信頼して祈り続けることこそが、私たちの歩む道であろう。

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