2018年2月18日 (日)

「寄り添う」

 朝日にキラキラ輝く水俣の海はどこも青く、海の幸の豊かさを想像に難くなかった。豊かな海の幸は人々を育み、この地の人々に「幸い」を運んできていたことだろう。だから突然、奇妙な病が地域の人々に襲いかかっても、海の幸に病の原因を重ねることはなかったに違いない。しかし人々を支え自慢であったあの海が、彼らと更に産まれてくる子たちの未来を奪ってしまったのだ。
 私が水俣を訪れたのは18歳の夏だった。久留米高専の新聞部に属していた私は、部室の壁に飾られた一枚のパネルにいつも心を魅かれていた。美しい瞳だけの写真であった。瞳の持ち主は水俣病により生まれた時から意識を奪われ続けている少女。少女に会えるとは思わなかったが、「水俣の町を、海を見たい」と出かけた。駅前に町を支配するかのようにそびえ立つ工場群、病の原因となる有機水銀を流し続けた企業の工場であった。その正門前に被害者の支援小屋があり、一晩泊めていただき、その翌朝、水俣の海を工場の対岸から眺めたのだった。
 私をそこまで動かした写真家もきっと読んだに違いない「苦海浄土」という書物、水俣病で苦しむ人々の姿を伝えてくれたその本の著者石牟礼道子さんが先日亡くなった。水俣の人々に寄り添ったからこそ、彼女の生涯は多くの人々の心を動かしたのだろう。彼女の訃報に接し、私の原点はその書に、そして少女の瞳に触発されたことであったと、改めて思い返している。苦しむ人々に、私も寄り添う人間になりたい・・・と。
 「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。」(ルカ8:1)イエスの目には、人々のどんな姿が映ったのだろう。「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有り様」(マルコ6:34)と捉え、深く憐れまれたように、町々村々の至る所で同じようになさったのではないだろうか。そして十字架に身を委ねることによって、同時代の人々のみならず、時を越えて全ての人々の罪を贖うという「寄り添い」をなしてくださったのだ・・・と。
 寄り添うために辿り着いた道が牧師であった私。その職責を果たせているかと自問しつつ歩み続けることが、石牟礼道子さんへの私なりの感謝と哀悼の表し方なのだろう。

2018年2月11日 (日)

「近くにおられる」

 30年前(牧師になって3年目)、北九州の黒崎教会(現在は廃止)に居た私は、隣りの直方教会も兼任することになった。そこに宣教師のウエンツ牧師夫妻が派遣され、一緒に牧会にあたってくださることになった。私は、黒崎と直方の間にあって北九州市のベッドタウンになりつつある中間市が、今後の宣教の進展には有力と考え、ご夫妻にその町に住んでもらうように依頼し、ご夫妻も快く引き受けてくださった。私鉄の駅近で、大きなスーパーマーケットもあって生活するには快適な場所でもあったからだ。
 ある日、ご夫妻のお宅から帰る際「近くのスーパーで買い物して帰ります。」というと、夫人が「私たちは行ったことがない。」と。「安くて何でも揃うので便利です。」と話すと、「でもスーパーでは店員さんと話が出来ないでしょう。外国人で目立つから、小さなお店に行くと話しかけてくれて、友だちになれるよ。」という返事が返ってきた。まさに「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」(1コリ9:23)と言ったパウロの如くであったが、それはまた「遠くの親戚より近くの他人」という日本式コミュニティーの生き方であったとも言えるだろう。
 工事中の隣家から石が飛んできてガラス1枚が破損した。昨年9月中旬に牧師館の軒天が一部破損した時もそうだったが、今回も直ぐにT工務店さんに連絡を取る。「会堂のガラス窓はサッシではなく漆喰が使われているので、依頼できるガラス屋も少ないのです」と電話の向こうで話してくださりながら、「出来るだけ早く手配します。」と返事をいただいた。会堂や牧師館のことを頭の中に入れていてくださるので大助かりである。翌々日、私が1時間程留守している間に修理は終わっていた。いつものガラス屋さんであった。帰り際「古いガラスなのでちょっとしたことで割れる可能性がありますよ」と言いながら帰っていかれた。市川に赴任して18年。この間にガラス窓に関する修理は6回目になる。60年前の建物なので、現在は使用されていない材料もあり、これからも手を加え続けていかなければならないだろう。それでも私は心配していない、「近くて信頼できる工務店さん」がいてくださるのだから。何よりも「あなたは近くにいてくださいます。」(詩篇119:151)という神がおられるのだから。

2018年2月 4日 (日)

「不便益」

 二週続けての降雪となったこの地方。豪雪地方からすれば「ほんの僅かな雪」でしかないが、それでも翻弄されてしまう。雪への備えがない為だが、鉄道会社が雪対策しないのは「費用対価効果がないから」という。雪による遅延はあっても事故は想定していないということなのだろうか。利用する人の命や生活への想いを少しも感じられない(と思うのは私だけだろうか)。ともあれその結果は、ニュース報道の通り、大混乱であったが、それも想定内なのだろうなぁ。
 雪に対する私の備えは、雪かき用のスコップと氷を割るツルハシを所持している程度である。冬タイヤは用意していないので車での外出は無理。自宅が職場だからそれで済むのだが、大抵の方は自宅外での仕事なので、公共交通機関を利用しない訳にはいかない。中でも運送業務の方々は、顧客に迷惑を掛けないためにと、スリップの危険や渋滞の中で仕事を強いられる。本当に大変な仕事だと思う。道路や線路などに雪対策ができないのなら、通勤・通学、運送等々、雪の日は休業・休校を許すような社会であっても良いのではないか。そのためには、社会全体というより我々市民が、何でも直ぐに手に入れられるという思いを捨てれば良いのではないか。つまり便利な世の中を良しとするのでなく、不便もまた可とする社会を目指すということでもある。
 山口県のとある老人介護施設には手すりもなければエレベーターもない。あえて不便にすることで、日々の生活の中でリハビリになるようにしているからだという。重症の患者にはスタッフがサポートしてくれるので心配は無用。これすなわち「バリアアリー」なのだと。 (1月24日NHK)便利な世の中が悪いとは思わないが、不便であることで、人が持って生まれたものを活かし、なおかつ人を大切にする社会に繋がっていくのかもしれない。
 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。」障害や病・苦難を罪(マイナス)と捉える面が信仰にある。不便をマイナスとする現代社会と似ている。しかしイエスははっきりと「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同9:3)といわれた。苦難も不便も、人がそれに前を向いて立ち向かおうとする時、「万事が益となる」(ローマ8:23)ことを、神はご存知なのである。たまには不便を享受しようではないか。

2018年1月28日 (日)

「祈りの場」

 江戸川縁、教会から歩いて10分ほどの所に、旧陸軍の武器庫として建てられた赤レンガ建築物がある。所有は千葉県であり、処分して広大な土地の有効利用を計画していることを知った市民が、「戦争遺産であり文化遺産でもある貴重な財産として保存活用を考よう」と、2010年に「赤レンガをいかす会」を有志で立ち上げ活動しておられる。そのフォーラムが先日、教会で行われた。会堂が「登録有形文化財であること」、「修復の実績がある」ということが理由であった。また、「今後の活動の参考にしたいので修復に至る経緯の講演を」と私に要があった。経緯についてきちんとまとめておかなければと思っていたので、良い機会だと引き受けた。
 2000年に赴任した時、既に床には傾き、壁面のひび割れも無数にあった。建築当初の赤瓦は建物の傷みを早めるということで撤去され、スレートの屋根なっていたものの、軟弱な地盤によって会堂の傷みは増すばかりで、やがては耐えきれなくなり崩壊するのではと素人の私にも分かるほどであった。建て替えるには惜しい建物であるが、市川工業高校の協力を得て実施した耐震検査や地盤の強度を測る平板耐荷検査の結果は、大地震で倒壊する可能性が高いというものであった。しかし補修の資金もなく、「崩れ落ちるのを待つしかない」という思いに支配され始めていた2007年9月の日曜日の午後、国府台近辺の建物を見学しておられた三人の先生方(他に数名の学生さん)が立ち寄られた。会堂には後片付けをして来客を待っていた妻が一人でいたが、その三人の方も来客の連れだと勘違いして中に通したのが、N大の建築科の教授、後に修復の設計監理を請け負ってくださることになる伊郷氏と登録有形文化財申請を担ってくださった金出氏であった。イエス誕生の折に贈り物を携えて尋ねてきた三人の博士が、私たちの会堂にも「修復の道」という贈り物を携えてやってきてくださったのだと、修復工事の際につくづく思ったものであった。
 フォーラムには85名の方が出席された。工事の折に監理者として働いてくださったIさん、工事主任のOさんもみえ、「五年たってもキレイに使っておられて嬉しい。」と喜んでくださった。会員一人ひとりの祈りがあってこそ修復という道が開けたことを参加者にお伝え出来き、感謝であった。
 修復された会堂は、これからも「祈りの場」として真間川のほとりに佇み続ける。

2018年1月21日 (日)

「毎日が・・・」

 1月17日、「『今も毎日が1995年1月17日なんです。』命の意味を問い続ける 阪神大震災23年」と朝刊1面の見出しにあった。7年前の東日本大震災において震災や原発被害に遭われた方々、様々な災害で被害に遭われた方々も、災害の大小に関わらず「今も毎日があの日」であることは同じであろう。予期せぬ出来事であり、深い悲しみと苦難を与えられたがゆえに、今もその日のことを毎日思い起こすのである。忘れられない悲しみと苦難だからこそ、注がれる眼差しが時の経過とともに希薄になることは、辛いことなのではなかろうか。
 決して忘れた訳ではないが、「毎日」ということはないのが私たちである。悲しみや苦しみはある意味固有のものであって、同じ状況を共有することは不可能だからである。聖書が「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と云っているのは、泣く人に寄り添うこと、そして何よりも泣く人を忘れないことなのではなかろうか。私たちも経験する、共に泣いてくれる人がいることで、どれほど慰められたことかを。泣いている自分をそっと受け入れてくれる人がいることで、前を向く力を少しずつ与えられていくことかを。だからこそ思う、災害に遭われた方々と直接の繋がりは無くとも、そのことを忘れずにいようと。
 話は変わるが、新しい式文は礼拝の冒頭に洗礼を想起することが設定されている。神の招きを受け入れたキリスト者としての歩みの始まりが洗礼であり、いつもそのことを思い起こそうと呼びかけているのである。毎日がとまではいかなくとも、毎主日に厳粛な中にも喜びを頂いたことを思い起こすことは、日々の歩みの支えとなる。市川教会でも、聖壇の片隅に置かれていた洗礼盤を、二年前に聖壇の前に移動した。礼拝の間いつも目に入るようにし、ご自身の洗礼の時のことを思い起こし、この週も主に支えらえた喜びの歩みに向かっていっていただきたいという思いが、そこに込められている。もちろん与えられたご自身の喜びを携え、先の聖書は冒頭にあるように「喜ぶ人と共に喜ぶ」ために他ならない。2018年、願わくばこの年も、毎日が与えられた洗礼の喜びに満たされるように!
 10日前に生まれた初孫も順調に成長している。これからは毎日が「ジイジ」になるんだなぁ~。

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