2018年7月 8日 (日)

伝統

 寝不足を抱えながらのW杯観戦。日本チームは16強で終わってしまったが、決勝まで世界最高峰の戦いを楽しみたい。そしてこの時期、イギリスではテニスのウインブルドン大会が始まった。サッカーもテニスも私の好きなスポーツなので、もうしばらく深夜の観戦が続きそうである。
 ところで1877年に始まったウインブルドンテニス大会(以下全英)は、世界で最古のテニス大会であり、グランドスラムと言われる四つの大会の一つである。しかし運営しているのは小さなテニスクラブであって、他の大会のような地域のテニス協会ではない。しかし最も黒字のイベントであり、潤沢なスポンサーにサポートされた大会なのだという。この大会を象徴しているのが、ウェアは全て白で統一することであろう。ただ、最初から白であったのではない。開始当初、テニスは社交の場で行われるスポーツだった。ところがテニスの技術が向上するにつれ動きも大きくなり、看過できない問題が「汗」であった。社交場にはそぐわない「汗滲み」は、「見苦しいもの、不適切で恥ずべきもの」と考えられた結果、白い服を着ることで見苦しいものを目にいれることなく皆がテニスを楽しめるようになったのだという。その後、布地の開発が進み、他の大会ではカラフルなユニフォームが着用されるようになったが、この大会だけは「白」を固辞し、しかも増々厳しく規制される方向なのだという。上着・下着・帽子・バンダナ・靴下・靴(靴底も)も、多少の淵飾りとメーカーのロゴ以外の全てが「白」でなければならない。もはや「白」を固辞するのは、それこそがこの大会の「伝統」だからなのだろう。(以上HP:Hatena Blogより)
 ルーテル教会が大切にしている礼拝式文を保持することは、ルター派の「伝統」でもある。ただし、「式文は神の恵みを伝える手段」ということを伝統としているのであって、その形式や順序を伝統としているのではない。「福音が語られ、キリストの体を分かち合う」ことを、式文を通して体験することが私たちの伝統にほかならない。それは宗教改革から500年続いてきた伝統であって、宗教改革1000年を迎える時にも変わらずに在る「伝統」だ、と私は固く信じて疑わない。式文を用いながら、福音を多くの方が体験してくださるよう祈りたい。
 ウインブルドン大会、白いユニフォームの選手たちのプレーを今夜も楽しもう!

2018年7月 1日 (日)

ミッシングワーカー

 「いつでもこちらに来て良いよ」と、一人住まいの母に電話を通じて声を掛けていた。母も電話先で「二階に上がることも、押し入れから布団を出すことも、そして近所に買い物に行くことも難儀だ」と愚痴を言うようになっていた。しかし、住み慣れた自宅、ご近所との家族以上の付き合い等を考えると、寝たきりにならない限りは我が家に来ることはないということも分かっていた。だからといって、いざ寝たきりになったから牧師館で介護するというのは困難があるため、介護付き老人ホームをネットで検索していた。しかし母は、寝たきりになる前に、昨年春亡くなった。最後は長男の私が介護すると決めていたものの、実際に介護生活となっていたらどうだったのだろう。
 「ミッシング・ワーカー(消えた労働者)」という労働経済学上の概念がある。仕事をしていない労働力のことで、失業者にもカウントされないため、国の失業率では見えてこない。現在、103万人もいると言われ、その多くが親の介護がきっかけだという。親孝行のためというだけでなく、職を辞めたいと思っていたとか、ちょうど派遣が切れたとか、様々な理由から介護生活が始まる。親の年金で生活する訳だから、自分の人生設計、贅沢を諦めることになるが、意外と生きられると気付くのだという。他人と会うこともなくなり身だしなみにも気を使わない。社会から隔絶され、やがて親が亡くなると社会復帰もできず、生活保護を受給して生きていくことになる。「どうしてこんなことになったのだろう」と嘆きつつも、そこから逃れられない依存性のある日常になりえるのだという。(NHKドキュメント6月5日より)
 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)こう言ってイエスは徴税人ザアカイの家に向かわれた。徴税人であるが故に地域社会から弾かれていた彼の家に、客が訪れたのは久しかったに違いない。消えていた彼の存在を、イエスは「あなたの家に泊まりたい」とおっしゃることで、「ザアカイ」として生きる力をくださった。その日、彼に「救いが訪れた」。
 失われた人々に注がれたイエスの眼差しを、弟子たちは引き継いでいった。主の眼差しの先にいた人々に、私たちも、そしてこの社会全体が心を寄せていけたら、「この世に救いが訪れた」と神が愛でてくださるのではないか。

2018年6月24日 (日)

どんな顔?

 ネットで検索機能を使うと、様々な情報を手に入れることができる。全てが有益という訳ではなく、また真贋の問題もある。それでも検索機能を利用することは多く、このエッセイを書き続けられているのも、ネット検索が出来なければ続けられなかったと思う。もちろん、情報の正確さのためにいくつもの記事を見るし、盗用にならないように気を付けながらの作業は最低限必要と心得ているつもりだ。
 10日前、歴史的な米朝首脳会談が行われた。終了後北朝鮮では、写真付きでその模様が掲載された労働新聞に、街中で人々の見入る様子が報道された。「アメリカ大統領はどんな顔をしているのか?」という会話も同時に報道されていた。大統領の映像を見かけない日は無い私たちの日常と、如何にかけ離れた状況に置かれていることか!大統領の顔の情報も与えられていない国に「非核化の替わりに体制を保証する」というのは、個人的には如何なものかと思ってしまう。
 「どんな顔」と言われて私たちは、「笑顔なのか?悲しい顔か?疲れてないか?」等と思う。数年前のこと、真間川沿いを歩いていた時、年配の男性とすれ違った。フトその方の顔を見た瞬間、私の気分が「ホッコリ」したことを今でも鮮やかに思い出す、実に穏やかな顔をされていたからである。どんな生活・生き方をすれば、見ず知らずの私にまで穏やかな気持ちにさせる表情が出来るのだろうと暫く考え実行してみたが、「人を穏やかにさせる顔」が出来ているかどうかは今も不明である。
 荒野でサタンから誘惑をお受けになった時の主は、どんな顔をなさっていたのだろう。「嵐よ、静まれ」と船上に立って叫ばれた時は?子どもを祝福された時、ゲッセマネの園で祈られていた時、そして十字架の上では?それぞれの場面で、喜怒哀楽の表情を見せておられたのだろうか?「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、イエス・キリストにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロ5:16~18)いつでも、どんな時でも、イエスは穏やかで人を和ませる顔をしておられたからこそ、私たちにも主に倣って穏やかな顔で生きていくことを、神は望んでおられるのである。神への信頼が、私たちの顔を穏やかに作ってくれる筈である。
 さて、今日の私は皆さんには「どんな顔」に映っていただろうか?

2018年6月17日 (日)

そう言えば、父の日

 そう言えば、今日は父の日。私の父が亡くなって10年(家内の父は50年前に亡くなっている)たつので、父の日を覚えて何かをするということも無くなっていた。それに、母の日のついでに父の日があるようなものだから(ちょっと言い過ぎか!)、父の日が第二週だろうと第三週だろうと、最近は殆ど無関心になってきていた。そういうこともあって母の日が5月第二週なので、「父の日は6月第二週」と無意識に思い込んでいた。だから「何事も無い」ままに6月第二週が過ぎ、すっかり父の日のことを忘れていたところに、次男夫妻から「父の日ギフト」が届いた。「父の日は6月第三週だった!」と思い返した次第。
 そう言えば、なぜ6月第三週が父の日になったのだろう。それは1909年、アメリカのソノラ・スマート・ドットという女性の提唱から始まった。彼女の父が南北戦争に行き、その間、母が6人の子どもたちを育てたが、父が復員して直ぐに母は過労で亡くなってしまう。その後、父は子どもたちが成人するまで育て亡くなった。当時、すでに母の日は始まっていたので、「母の日のように父に感謝する日」をと嘆願して、父の誕生月である6月に行うようになったのだという。ただし、父の日が記念日と正式になったのは1972年、1947年に記念日となった母の日から4半世紀後のことであった。やはり父の日は「ついでに」制定された感が強い気がするが…。
 「そう言えば、イエス様はこんなことをしてくださった、こんなことを教えてくださった。」福音書が未だ書かれる前に、人々の間ではそのような会話が至る所で交わされていたのではないだろうか。それが書き記され、福音書として整えられるまで半世紀の年月が必要であったし、イエス様の出来事を福音として信ずる教会がローマ帝国に認められるまでは約300年を要しているのである。初期の頃からキリスト教信仰はゆっくり、しかし確実に成長していったのである。だからこそ私たちが「そう言えば、今日は日曜日。礼拝に行こう。」そんな朝を迎えても、少しも悪びれることはないと思うのだが。
 今は「そう言えば、今日は父の日」であって良い。その内、きっと母の日よりも盛大にお祝いしてもらえる日が来るに違いない。ただし、その時私は神様の許で、父の日を気にしないで寛いでいることだろうが……。

2018年6月10日 (日)

記憶力

 先週の日曜日は、諏訪教会での初めての礼拝。午後3時からの礼拝には12名の方が出席され、窓外の諏訪湖を一望しつつの礼拝であった。礼拝後、皆さんと歓談し、予定の列車の時刻まで数名の方とレストランで夕食。市川駅に着いたのは午後10時過ぎであった。駅ビルで買い物をして支払いをしようとしていた時に気付いた「財布がない!」と。とりあえず小銭入れのお金で支払いを済ませ、帰宅を急ぎながら、どうして無くなったかと記憶を辿る。列車に乗る時に、「財布はかさ張る」と千円札二枚を小銭入れに移し、財布はバッグにしまった筈。しかし新宿駅で降りる際、網棚のバッグを降ろした際にチャックが開いていたので閉めた筈。座席や歩行中に落としたなら、音がするから気付く筈。となると、網棚にバッグを乗せた時にそこに落ちたという結論しかない筈。私の記憶は「新宿まで乗ったスーパーあずさの2号車D席の網棚」と叫び続けていた。帰宅して直ぐに新宿駅の忘れ物センターに連絡するが「車庫に戻り車内清掃しているので、明日の夕方には分かります」とのこと。
 翌日から三日間、朝夕同センターに問い合わせるが「残念ですが、お尋ねの品物はありません。」とオウム返しの返答のみ。四日目午前中に再度問い合わせても同じ返答なので、ついに諦めて交番へ出向き「遺失物届」を提出した。「財布の中の現金はどこかの誰かがニンマリしながら使ってしまっただろうけど、クレジットカードは停止し、保険証も遺失物届を出したから被害は最少限に止められている筈」と気持ちを切り替えることにした。ところが数時間後、事務局から「諏訪警察署から連絡をくれるようにと電話があった」旨の連絡が入った。諏訪警察署に連絡すると「レストランの方がお財布を届けてくださった」とのこと。現金は小為替で、財布は着払いで郵送するということであった。電話を切った後、思い込みの記憶とは違い、「お札を入れたのは諏訪教会の控室、レストランに行く際に財布をポケットに入れた」という記憶が鮮やかに蘇ってきた。
 今回の事で、記憶は曖昧で自分勝手に作られるものであることを痛感したが、同時にきっかけがあれば記憶は鮮やかに蘇ってくるものだということも経験した。キリストとの出会いの記憶の多くは、きっと後者であったに違いない。
 届けた方、諏訪警察署の方に、手元に戻った財布を見ながら心から感謝した週末!

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